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還暦の春

2007年4月28日

寒 波 襲 来 
     ―― 平成八年師走朔日の記


  (一)
 今日から師走という日、急に真冬が来て、朝から吹雪となった。遠望の山々が初老の貴公子の髪のようにうっすら白く、陰影の濃い稜線が清しく見える。ああ、寒気に引き締まる空気というのもいいものだと思う。僕は寒さには滅法弱いが、凛とした冬の一瞬は好きである。
 寒さ暑さの季節のリズムが齎らす生体の反応は、そのまま日本の風土の情感反応を形成してきたであろう。常夏の国もいいが、それだと神経が延びきって惚けそうで心もとない。生活の時空が、例えばクーラーの普及などで、まるで常夏の快適な等質性に被われるようになると、きっと生体のリズムが自然から離反する。それではやがて病気になるので、様々の文化的投企を考えざるをえない。健康ランドや旅行が流行る。肉体のトレーニングに励んだり、非日常の異質なものに触れることで、生命のリズムの回復を図ろうとするのである。けれども、生体はもと自然製のものである。文化的、技術的工夫は擬似自然の模倣を脱せられないから、矛盾は深まるばかりである。自己生命の生理は模倣では生きられない。
 人間自身の工夫で掬える部位というのは、こと生体に関する限り、ごく表層の部分のことでしかない。時代の趨勢により、自然と呼応する生体とその感覚の基
盤が壊れてきたというのは、実に恐ろしいことである。自然破壊は即ち生体破壊である。生体の狂いは即ち感覚の狂疾を帰結し、人間自身の自死に等しい。基本的な存在感覚が狂ったところに、文化も学問もあったものではないであろう。現代の学問理論の混迷は、人間感覚の曲率の狂いに由来する。理論を培えば培うほど、ますます狂う。自然は人間の理論に基づいて成立するのではないからである。

  (二)
 午後、車で街に出たついでに博多湾を眺めた。壱岐や対馬航路の船が気になった。昔はよく乗った船である。いまも折々友達が乗っているであろう。湾内全体に白波が立っていて、岸辺の漣も高い。時々嵐のような風が吹く。今日は大概の船が休らっているようだ。多分こういう日には、漁師や港湾労働者にとっては、一息つける僥倖の一瞬がある。休みのはずでないのに休みの時間のもてる日というのは、切迫した問題のない限り、天恵の自由の感覚が体に返ってくる至福のひとときだ。
 宮崎に住んでいた子供の頃、僕は台風が好きだった。年中行事のように、秋になれば必ず来た。キャサリン台風とかキティ台風とか何とか、台風は西洋の可愛い金髪の少女を思い浮べるような愛称で呼ばれた。今のように、台風何号とかと無機的な言い方はしなかった。学校は休めるし、ハラハラしながら、好きな時間を過ごせるという快感は、天にも昇る自由感だった。灯がすっかり消え果てるような非日常の時空に、轟々たる外の風音に脅えながらも、期せずして居ながらに冒険しているような感じがあって、何とも言えぬ充実感を味わった。台風の後始末などの面倒はむろんある。しかし、その後の労働までがまるでお祭りのようで楽しかった。家が倒壊したり、人が死んだりというような、大きな不幸に遭遇しなかった精でもあろう。台風が喜ばしいはずはないのだ。でも、そういう大不幸を含め、それら不意の境遇や体験に嵌まって来ている人間の感情は、事態の幸、不幸とは別の次元で、いかにも豊かなものがあると思う。客観的な禍福とは異質な、生命性の禍福とでもいうべき、実存感覚が腹にこたえる。あの台風の夜は、そこからまた新しい日常に乗り出すことの出来るような、存在感覚のリフレッシュの機会だったように思う。
 人はいつでも、単に客観的な場所や時間を生きているのではない。外面の幸、不幸で、人間の幸、不幸やその意味が決せられない所以である。

  (三)
 おお、寒い寒いといいながら夕暮帰宅した。外が寒いから、家内の暖かい飯が美味い。暖かい空気が有り難い。もし上辺の快適を求めつづけていくと、結局熱くもなく冷たくもない、だから、どうということのない人間関係だけしか残らないだろう。すると、自然製の内なる本当の自分は、きっと不快感を洩らすだろう。快、不快ということも、外面、内面、段々である。一面の快だけを快とするような、コマーシャリズムの社会が困るのは、そうすることで人間の快の在処を、感覚まるごと狂わせてしまう恐れが強いからだ。
 凛とした寒気の一瞬は好きであるが、丸一日も、あるいは毎日毎日寒波に晒されでもすると、僕はもうきっと悲鳴をあげる。とても樺太やシベリアで住めるようには育っていない。日本の冬は三寒四温のようなリズムがあって、情感まで凍てさせるような酷薄さがない。かえって、体温の心地よさを自覚させるような歌が生れ、文物が培われる。天与の四季に育まれ、たえず新鮮な生気の吹き込まれてくる風土の自然を、大切に生きなくてどうしよう。自動車や大ビル、整いすぎた諸施設に囲まれた快適さというのは、決して人の魂を養う快適さではないであろう。無機的な現代流の快適に狎れると、生来の豊かな感覚が、自分の内で、失われていきそうである。快適をはき違えてしまうような体になったら、元も子もないではないか。しかも次第次第、部分部分はそうなってきている。人性は脆弱に、感覚は鈍感にと。人のことではない。自分自身そう思うのである。

 
   山茶花の盛り 
      ――平成九年元旦の記

  (一)
 植物にも動物にも旬というものがある。自然界には旬があり、生命あるものの生涯には、盛りの時というのがある。七、八年も前、友達に貰った庭の山茶花の木が、どうやらこの冬あたり、盛りの時節になったようだ。
 満腔の花弁をつけて、小振りの樹形そのままが緋色に染まっている。濃緑の葉っぱはわずかに花の影のごとくに見える。例年より早く咲き初めた感じで、今年はよく咲くなアとは思っていた。やがてすぐ霜月も終り師走となった。ふと気づくと、どこの山茶花もよく咲いている。作物には年による豊凶があり、成り年と裏年があるから、今冬はきっと山茶花には当たり年なのだろう。しかしそれにしても、我が家のはまた激しい。もはや後に続いて咲き出しそうな蕾がどこについているのか、そんな余地はなさそうに見える。わらわらと花片は根方に落ち積もり、そこら一面に散らかっている。もうこの辺りが潮時らしい。毎日のようにそう思っては、またあれあれと思い見直す。花勢は一向に衰える様子もなく、年を越してしまった。
 自然の威勢というのは恐ろしいものだ。今ぞ、これぞと咲き誇る花に、朝の内はメジロやヒヨ鳥が来ている。花が小鳥たちに啄ばまれている。僕は朝寝坊なので、時々しか早朝の花を見ないが、それでも八時前くらいに見る時は、大抵メジロがつがいで来ている。愛らしく戯れながら、花の蜜でも吸っているのか、花弁をあさる。ヒヨ鳥の時は猛烈である。花片をヤケに、まるで競馬場の空に投げ撒かれるハズレ馬券のように散らして、ガツガツ花を食っている。あゝ、花がみんなやられると、思わず身構えそうになる。それなのに鳥の去った後、花は全体ビクともしていない。何事もなかったように威勢よく、山茶花は毎日緋色の固まりである。一個の軍団となって紅く燃え出しているようである。

  (二)
 人生の盛りの時も、ある面きっとそんな風なのだと思う。油の乗り切った男盛り、何も恐れなくとも考えなくとも、内から力が沸いてきて、何をやっても様になる、花になる、そういう時がありはしないか。環境が悪かろうが敵にやり込められようが、平気でわが道を見つめて立てた、そんな時期が僕にも瞬時あったような気がする。自然の威勢が自分を駆った。今は己を失った等というつもりでは更々ない。しかし、だいぶ薹が立った。自己の内に漲る力というものは昔日の比ではない。
 女の場合はもっとはっきりしてくるだろうか。「生涯で私が最も美しかったとき」なんて科白があるが、女盛り、最も耀く時節というのはあるかもしれない。「あるかもしれない」ではない、きっとある、必ずあったんだと思う。しかしそれでも、「しれない」というのは、そこが人間が単に動物の一種というだけの存在ではない証拠と思えるのだが、自然の盛りがそのまま人間の盛りとは断言し難いからである。
 自然の盛りが即ち人間の盛りとするならば、盛りが過ぎたら後は衰退しか残されない。しかしそれは変である。人間の歴史にまるで文化というものがないかのごとくだ。つまりそれは外でもない、年寄を粗大ゴミ扱いする思想ではないか。福祉社会というイメージは、その柔和な外見に似ず、実に酷薄な思想である。弱者を保護の対象にしはするが、その根本事由については何も考えない。考えたら何も出来ない。制度というもののもつ非情さもさることながら、弱者といわれる者の生の境位は二義的にしか忖度されまい。もはや耀けない弱者が、眼前に転がっているというところからの発想だ。人の盛りを山茶花の落花のように見てしまう。粗大ゴミ扱いしないために、福祉国家の樹立が必要だと人は言うのだろうか。そうなんだろう。いま社会の思潮はそういう方向に進みつつある。
 だから僕は、相当に困惑している。自然の盛りと耀きが失せたら、後は保護されながら次第に衰弱し、大事にされつつ死の日を待つというのでは、僕は困る。それなら今日からの僕は、一人前の生ではないということになる。ほんとうに人間とは、そんなものなのかしらん。

  (三)
 若い頃から僕が見てきた年寄たちや、手許で死なせた両親たちは、決して人間衰弱の晩年ではなかった。母などは、言ってみればいよいよ輝き耀やいてことりと死んだ。人の晩年という呼び方は、周囲の者から見た自然的、客観的人生時間の呼称ではあれ、当の両親たちは死のその日まで、人間の盛りを生きていたことを僕は些かも疑わない。父八十二歳、母七十二歳であった。
 だから自分も、死ぬ日まで青春の人間の盛りを生きるのだと思っている。もし誰かが保護してくれるというなら、その盛りを失わせぬように、何よりその盛っているものを見てくれないといけない。みんな等しなみに、自然的の盛りが過ぎたら、後は衰退と思ったりするのは、単に外見の、体力や状況適応力だけの話ではないか。人間の耀やきが、単なる自然や体力や即応力のレベルで計れるものなら、僕らは皆な人間を廃めねばならなくなる。
 年寄が有用でなくなっていくような歴史というのは、異常極まりない社会の擬制だと思う。今はもう誰も殆ど疑うことすらしなくなったようだが、年寄がいなくても自律できる文化というのは、どこまでも半端なものである。体力のある間は、何があってもなくてもやっていける。若さのもつ逞しい創造力の積極的な意味は、若くない者を含む人間共同の場で生かされて、はじめて人間の文化であろう。何のための生産力、何のための技術、何のための政治、経済か。社会の人間観の根本的な異常さを、福祉というような政策で補おうというのは、ますます異常を煽るに等しい。福祉があればその分、企業は自由となるだろう。そこでますます敗者、弱者が生み出される。人間がみなそれでやっていけるかのような幻想の体制。あるいは例えば、晩年は物見遊山とゲートボールとカラオケで楽に過ごしていいよ、等というのは、人間という存在を理解している思想とはとても言えない。まじめな顔して、用済みだからお前は自由だ、いつ死んでもいいよと言われて、本当に喜ぶ人があるのだろうか。

 庭の花盛りの山茶花を見ていると、そのあまりの盛り具合に、僕には少々うるさく感じられてくる。自然の威勢には違いない。それはそれで見事である。しかし傍には、年中殆ど色も変えない柘の木もある。槙の木もある。こちらも自然においてどっかと生きている美しい自然である。可愛くて騒がしい山茶花の盛りは、その単純な明るさと新陳代謝の激しさにおいて、今の時代の文化に似ている。庶民的だが、お茶にもなれない。椿にもなれない。盛りが過ぎたら、すぐ退屈しそうに思うのは、なかなかに苦く淋しいイメージである。
 還暦の年の正月。さてこれから落ち着いて、もう少し人生のことを深く考えねばならん、と思っている。生きているうちが花という、一見投げたような俗諺は、実は人は死ぬまで花だと言いたかったに違いない。 

 
   如 月 の 色
      ――平成九年如月朔日の記

  (一)
  ねがはくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月の頃 (西行)
 釈尊入滅の日とされる二月十五日、西行は自ら歌に読んだ通り亡くなったのだという。実際は十六日らしいが、まァ一日くらいはまけておこう。「菩提樹をさくらにかへぬ西行忌」(素丸)なんていう江戸時代の俳句もある。思った通りの日頃に死ねるなんて、出来すぎの偶然と考えても何とも感嘆の外ない。その有名な「ねがはくは」の歌の前後に、「山家集」では次のような歌が並んでいる。
 「花にそむ心のいかで残りけむ捨て果ててきと思ふ我身に」
 「ほとけには桜の花をたてまつれ我が後の世を人とぶらはば」
 すべての執着を捨てたと思うけれども花だけは忘れられない。自分を思い出してくれるなら桜を供えてほしいと。西行という人は、出家者というより純日本的な恋の人、花の人という印象が強い。仏教者を標榜しながら神祇の歌というものも少なからずある。例えば、「禊(みそぎ)して幣(ぬさ)きりながす河の瀬にやがて秋めく風ぞ涼しき」。信仰の節操の堅持を主張するキリスト教や理屈を重んずる理論家から見たら、いかにも拙劣な日本的求道の自然主義の見本と見えようか。それでも花を愛した西行を、また私たちも愛しているところがある。それでいいのだと思う。人の生き方、その姿というものは、理屈の首尾一貫性や完璧さとは殆ど関係がない。生き生き生きるということは、たとえ西行の花のような稚気に満ちたものであれ何であれ、そこで死んでもいいと思えるような、感一入の心のものがあるということであろう。
 
  (二)
 花の如月というのは、しかし陰暦の話である。今の二月は厳寒だ。一切がもの寂びる冬ざれの季節。それだけにまた待春の気の昂ずる時節ではあろうか。「きさらぎ」の語源やいかにと思って、例えば「日本国語大辞典」でも繰ってみると、笑ってしまう。語源説は新暦にも旧暦にも当てはまりそうで、皆様解釈ご自由に、といっているみたいである。曰く、「寒さのために衣を重ねるから衣更着(奥義抄外)」「陽気が発達するから気更気(和訓栞)」「正月の春が更に春めくから、或いは八月に雁この月に燕がくるから来更来(類聚名物考)」、等々。要するに現代はもう、何も確かなことは分からなくなっているという話に過ぎない。「き」は気であったり、衣、来、木であったりというが、そのすべてかも知れない。もはや漢字なしでは日本語は通用しないが、母国語の基層の音韻の出処は、雲がくれにし山のあなたに消え失せている。古来のやまとことばに漢字を宛がって意味を汲むというような、これまでの語源探求法の限界というものも感じなければならない。
 今の如月は真冬である。北は雪に閉ざされるであろうか。南国に住んでいるとまた南国の冬が好きになる。如月はどこに行っても白かった、というのが僕の深くもっている印象なのだが、一昔前まで、九州の真冬も白かった。別につららや霜柱や小雪ばかりではない。宮崎にいた子供の頃、あの農村の一面の黒土の大地に、大根の千切りを干す真っ白い絨毯の景観があった。純白と漆黒の壮大なコントラストの、凄味すら感じる美しさを記憶している。今はそんなこともなく、多分畑にはビニールハウスがあるばかりかと思う。対馬にいた高校生の頃は、濃藍色の日本海をバックに、スルメ烏賊の真っ白なカーテンが美しかった。どの浦の漁村でも見られた。早朝、帰港したイカ釣り船に女たちが群がって、イカ割り包丁で烏賊を開く。それを次々風の中に吊していく。朝日にきらめくカーテンがどんどん広がっていった。寒さを忘れて見とれていたことを思い出す。生活の中にあった季節の美、人々の吐息の白さまで美しかった。
 
  (三)
 九州の冬ざれの自然としてもう一つ僕に忘れられないのは、あの九重高原の原野の色である。いわゆるヤマナミ横断道路の出来たての頃、新婚旅行で初めて通った。ちょうど三十年前となる。二月十九日が僕らの記念日だ。以来何度かわざわざ出かけたことがある。いつ行っても裏切られたことはない。高原に立つと、あらゆる色からよけいな彩度を一切消し去り、存在というのはこういう色だと、目にもの見せられているように感じる。残雪の白、森陰や大地の黒、枯木、枯草の灰色、褐色が無限のバリエーション、グラデーションを響かせつつ、見渡すかぎりに広がっている。ああ、ここでなら死んでもよいと、西行とはまた別の色感で納得させられるような景観がある。ここでなら死ねるという思いは、畢竟ここでなら生ききれる、わが人生のダルマに眼が入るという思いだろう。モノトーンに近い原野の表面は、その内面に沸々とした生命を胚胎していることを感じないわけにいかない。自然の配色のもつ迫力である。
 昔そんなことを友達に語ったら、同感だといった女がいた。「そんな中を素っ裸で突っ走り、すっとそのまま消えてしまいたい。」些か艶っぽい比喩に驚いたのは、僕もその頃若かったからだが、やりかねない女だったからである。その女の素っ裸を想像しつつ、いかにも女とはラジカルなものだと敬服した。西行が小さく見えてくる。  
 如月一日、ちょっとした所用で郊外に出かけた。電車に揺られていた午前中は晴天だったが、午後からは少し曇ってきた。山の端近く、目的地に着いた頃、細い糠雨がみられた。行く手に雲が割れてつと鈍い日差しが出る。「ほオー、狐の嫁入り」と、子供に返った気分で連れに言いかける。とすぐ、山の正面に虹がたった。「わアー、虹だア!」思わず叫んでしまった。虹が何でこう嬉しいんだろう。季節はずれ? 如月の虹なんて聞いたことがないと思えるが、これも温暖湿潤の地の風物かと思う。道すがらどこにも、僕のイメージにある冬の白さはなかった。しかし土地には土地の、今は今の、如月の色があってよいだろう。冬ざれとはいうものの、何と賑やかで多彩な如月の色かと思う。
 机の隅の花瓶の紅梅が満開になった。水仙の白と香も入れ混じる。さっきからバッハの無伴奏ヴァイオリン・パルティータを流しているのだが、冬の気によく似合うように思う。                

 
   古墳と桜とタマフリと
      ――平成九年弥生啓蟄の記


  (一)
 先日、新聞に「『隠れた古代史』に期待、西都原の2古墳調査」というような見出しを見つけた。(朝日新聞、西部2月21日)ふと懐かしい思いがよぎる。宮崎にいた子供の頃よく遊んだところである。西都原(さいとばる)古墳群の中心には、宮内庁の陵墓参考地がある。そこだけはずっと立入禁止で、新聞には、「これまでは古墳の形さえ分からなかった。」図面も大正時代のものがあるだけ、と書かれている。今回はじめて、ちゃんとした測量をする許可が宮内庁から出た、ということらしい。
 そこに男狭穂塚(おさほづか)、女狭穂塚(めさほづか)の二基、前方後円墳のあることは、僕は小学四年生の頃に知ったと思う。学校から先生に連れられて、古墳を見に行ったのだ。新聞記事によると、昨年十一月西都市の古墳祭りで初めて一般の立ち入りが一日だけ認められたそうだ。しかしこれまで、学童の見学は許されていたのかどうか、もう半世紀も前の話だが、昭和二十二、三年頃、僕らは古墳の中に入った。原っぱの奥まった一角だった。そこからは大樹に覆われた暗い森の小道に分け入るように、柵内に案内された。そして二基の墳墓を一巡、先生や守部の説明を聞いた。その時に塚の名前や、前方後円などという言葉も覚えたのである。塚の二柱といわれる「ににぎのみこと」や「このはなのさくやひめ」の名も聞いた。
 西都原の台地がある町は妻町という。そこに出かけた当時の僕らは、そのすぐ隣り村の三財小学校の児童だった。しばらくして僕の一家は三財村から妻町に引っ越した。すると、界隈住人の春の花見は、西都原の古墳の前庭と相場が決っていた。まだ戦後まもなく食料物資も乏しいなかに毎年学校の春休み、近所の家族や友達と共に、弁当や茣蓙をもって出かけた。大人たちは桜の根方ですぐ宴会を始める。僕らははしゃぎ回り、近くの鬼の岩屋古墳の石窟に入ったり、方々に見える築山、つまり古墳の上に走り登ったり、その辺りに小便したりして遊んだものだ。だから、西都原といえば、僕には男狭穂塚、女狭穂塚、鬼の岩屋に花見に小便、というのがワンセットのイメージになっている。小山の点在する広々とした草原に大の字に寝ころんだ時の、空の大きさ高さも記憶している。

  (二)
 一方、冬ざれの西都原にもよく行った。町でも一番近い地区に住んでいた精でもある。真冬の黄昏などは、どうかするとぞくっとするほどの淋しい台地だった。その南側の斜面だったと思うが、割に大きな池があった。その堤を伝って登るのが近道だった。「この堤には人柱が入っている」と聞かされていた。速須佐之男の命に娶られた櫛名田比売のイメージ、例の八俣の大蛇の伝説とも重なっている。通る度に、美しい少女だったという話が思い出され、だから、その辺で小便をしたことはなかったと思う。
 鬼の岩屋の周辺でかくれんぼをしたことがある。ある時、薄の草陰に身を潜めたら最後まで発見されなかった。じっとしていて、次第に深まる妙な不安、泣きたいような消え入るほどの寂寥感に襲われた。今もその時の感じを体がよく覚えている。花見の時期の明るい空間と、このかくれんぼの時の戦慄感も一種ワンセットになって、西都原は僕の内に大地の一つの原風景を形づくる。古墳と桜は、隠れているものとその露われ、とでもいうべき感じで折々僕に蘇るのである。
 古墳と桜という取り合せは、実は両親の思い出でもある。両親は共に奈良、斑鳩近在の出身である。斑鳩の竜田神社の真ん前に母の育った家があった。ひと回り十二年歳上の父が母の家に養子に入った時、母はまだ二つか三っつだったという。父は母のお守りをさせられ、そこから五百メートルくらいの法隆寺の境内や、そのちょうど中間にある築山の古墳で遊んだ。「あそこでシーシーとやって、ようお母ちゃんに小便させたわ。」その古墳こそ、父の死の翌年、母の死の二年前、昭和六十年に発掘された藤ノ木古墳である。新聞にきらびやかな馬具などの出土品のカラー写真が載ったとき、母は眼を細めて「ここでおしっこやなんて、勿体ないことやったなア」と呟いた。
 その母がまた大の桜好きで、西行ではないが終生吉野の桜にご執心だった。両親たちにとって花見は単に物見遊山ではなかった。まるで義務ででもあるかのように、子供にも花見を勧めた。「お花見で身も心も浄まるんだよ」と母は言ったものだ。花見が古来タマフリに結びついていて、病気癒しの習俗や儀礼ともなり、神や仏に花を奉る「立花」を経てやがて「活け花」の文化になっていくというのは、後の僕の知識である。タマフリ(霊振り)とは「鎮魂」「招魂」の文字を当てる言葉で、つまり霊力、生命力を振り動かす意といわれる。確かに両親たちの世代までは、タマフリの花見をしていたかと思う。

  (三)
 今から顧みると、古墳の大昔も、つい先頃の両親たちの花見の昔も地続きで、もはや殆ど同じ一つの昔と見えてくる。花見なんて今も昔も一緒だろうという人があるかもしれない。しかし現代、みごとに急激にすっかり変ったと思う。等しく酔狂でも酔狂のなかみが変った。行楽とか観光というのと同じで後に塵芥の山を残し、ただわが眼わが身の上辺を楽しませるだけの消耗が流行る。
 古墳についても、それを作らずにおれなかった古代人の思いを、僕らはどれくらい忖度し得るのだろう。古代史解明の資料として発掘せずばやまずという関心のあり方を、頭から否定するつもりはない。しかし、いくら資料(史料)が出揃っても、それに呼応する存在感覚が鈍ったら、古代人の息づく余地はなくなるだろう。古墳を資料としてしか見ないというのは、近代的科学至上主義の殺風景な価値観にすぎない。資料という語からして、すでに人間主義の不潔で傲慢で恥ずかしい観念だということを、誰も疑っている風がない。
 西都原で花見をしていた頃、大人も子供も、あの古墳群の静もりの気に打たれ、花にタマ振られ、古代から一貫している初々しい生命を感受していたと思う。古墳に何様がお隠れあそばしていてもよかった。森や大地への畏敬が、等しくまだ日本人の暮らしのタマフリだった時代である。今は振るべきタマが行方不明となった。一層発掘して分析して、学者が新説でもたてる以外に、古代への通路も閉ざされてしまったと思われる。
 古代史は二重の意味で、とことん暴き尽くされねばならないだろう。一つは、現代人にはそういう関心と方法しか持てないのだから。もう一つは、暴き極めねば、暴くことの無意味を悟ることが出来ないだろう。何の物的証拠がなくても通っていた、古来日本の物語の意味は、すっかり蒸発させられてしまったのである。存在的、根本的な信仰を喪失した国民には、もはや何事においても本当のことは究めようがなくなっていると思う。
 三月三日はお雛祭りだ。桃の節句も懐かしいタマフリの行事であった筈である。今はこれも、とってつけたような白々しいものとなったであろう。子供たちの景色の、可哀相な貧しさである。久しぶりにわが家では娘が一人、祖母に買ってもらった人形を出して飾っていた。僕は所用で外に出かけ、友達とせめてもの濁り酒を飲んで酔っ払った。歴史の遠い遠い端っこに佇んでいるような気がする。ビルの上階の部屋でポツリポツリと友人と会話しながら、眼下に都会の夜景を見降していた。半世紀前の子供の頃なら、リンドバークの「友よ、あれがパリの灯だ」とでもいうような感動で見たかもしれない光彩である。しかし人間不信の蔓延する時代、煌めく光は、幾万の庶民の溜めている涙の一粒一粒のように感じられた。これもつい数日前新聞で、元赤軍派の死刑囚坂口弘の歌を読んだ精かもしれない。
  「人類の億千万の亡き魂が降りゐるごとく雪の降りたり」
(朝日新聞、2月27日)
誰が好んで人殺しなどをやったであろうか。何が人間不信を煽るのであろうか。お雛さまの日が過ぎて啓蟄ともなれば、ああ、オウムのサリン事件から二年目だと思う。まだまだ当分、人類は狂いを甚だしくしていくような気がしてならない。ますます剣呑な新しさばかりが求められ、魂の帰るべき古里は日毎に荒廃され尽くす。僕はタマフリを信じて、現代の創造性や変革には与すまいと思っている。