background-image

法事三題

2007年4月28日

〔法 事 三 題〕

 

哀 し き 現 代 思 潮

         <お隣り、柴田喜美子さんの不幸>

  (1)
 お隣の奥さん、柴田喜美子さんが亡くなった。11月28日、64歳であった。その十日ほど前にお見舞いに上がったのが僕は最後だった。その時奥さんは、「済みません!こんなことになって。」と言われた。腹水がたまってお腹が臨月の妊婦のように膨れ上がり、ぱんぱんに張っていた。病院でもう余命一月と宣告されて何日かが経っていたと思う。
 「済みません」は僕が言わねばならない言葉だった。無論僕は直接の下手人ではない。しかし一種の殺人幇助ではないかと思われ、遣る瀬無い悔恨に苛まれる。途中で色々疑問の起った主治医を、はじめ「名医だ」といって紹介したのは僕だったからである。
 掛かりつけの町の医者から「乳癌」と診断を受けられ、しかるべき病院に行けと言われて相談に見えたのは二年前だった。その医者が紹介しようと言われた病院がどうも馴染めない、他にいい先生を知らないかと言って来られたのだ。それを聞いた僕も同じ感想だった。その病院はあまり印象がよくなかった。そこで亡くなった何人かの人を知っているが、見舞いなどで何度か訪れて、どこかしら暗い印象をもっていた。
 「にわかには分かりませんが、ちょっと聞いてみましょう。」そう応えて、僕は調べにかかった。といっても、いずれお座なりなことしか出来ないわけだが、まず三年前妹が胃癌の手術をしていたので、その主治医のことを思い出していた。妹は「よかった」と言う。それで九大の医学部の知人に照会したら、妹のかかった先生は「癌の外科手術では聞こえた名医だ」ということだった。しかし他にも乳癌専門のそんな医者はいないのかと思って、製薬会社の営業部にいる甥に電話を入れた。すると、「明日、福岡県下の担当者の連絡会議がある。いつも病院に出入りしている営業マンが集まるから、そこで乳癌の専門医で推薦できる人を質してみる。」と言ってくれた。
 翌日、すぐ甥からFaxがきた。すでに名医だと聞き、妹が手術を受けていた当の先生の資料だった。その先生のことは一言も甥にはしゃべっていない。しかし顔写真から業績一覧、最近の論文まで何枚もの書類を送ってよこした。錚々たる業績、論文の文体も先ずはちゃんとしていた。嬉しかった。偶然の一致というより、名医に違わぬという思いがしたのである。
 奥さんも喜んでくれた。妹の主治医だから、早速妹を通しアポイントを入れ奥さんは入院、間もなく手術を受け、経過も順調そうに見えた。ただ術後に、始めは分からなかったが肝臓に小さな転移があると言われ、それを処置しなければならないということで、そのうち抗癌剤を試すということだった。手術後はしばらく退院してこられ、奥さんはもうすっかり完治したような元気さで、あちこち飛び回っていた。夜遅くまで話し込みにもみえた。話し好きだった。明るくてしっかりした頑張り屋さんで、デリケートな話もよく伝わる、血の巡りのいい素敵な奥さんだった。
 やがて第一回目の抗癌剤ということで再入院され、それが一クール、二クールと四クールまで、二ヶ月くらいかかった。その間も時々退院して来ていて、一度下がった白血球もすぐ元通り回復するし、少しも病人らしくはなかった。ただ、頭の毛は全部抜けた。二回目の後だったと思うけれども、退院の合間を縫って「鬘を作ろうと思う。」と言ってこられ、東京の友人の先に鬘屋をやっている人がいるので、電話をしたらすぐ博多の一軒を紹介してくれた。いいのが安く出来たと言って奥さんはまた喜んでくれた。

  (2)
 その頃から僕は少し不安を感じていた。まず隣の息子達から、なかなか病院で納得のいくようには説明が受けられないという話を聞き始めていた。奥さん自身も「色々聞くけれども、よく分からない」というようなことが出て来た。僕は紹介の手前もあり、独断で主治医に面会を申し入れ、話を聞きに行った。
 しかし結局僕も何も分からなかった。名医の主治医は「患者さんは丸山ワクチンなんて水みたいな屁にもならぬものをやってみたいなんて言う。こちらが考えているのはそんな迷信の話ではない。」と言って、わっと薬の名前や数値やドイツ語の専門語らしきものを並べ立てた。悲しいかな、専門語は僕は一語も分からない。「それでどうなるんですか?」「最善を尽くすということです。」すべて問題は素人がゴチャゴチャ言うところにある。下らぬことを言っていると治るものまで治らなくなるぞ、というような話の調子だった。心象としては、一種僕の懐疑は決定的になったと言うべきなのだが、反証の手立てはない。
 主治医との会見の感想を、僕はやや控えめに奥さんや息子達に伝えた。「だから、これ以上の疑問が出てきたら、何か次のことも考えた方がいいかもしれない。東京の慶応大学病院も一案ですから。」すでに『患者よ、がんと闘うな』(文芸春秋刊)という本は紹介してあり、その著者、慶応の放射線科・近藤誠さんの話は奥さんには聞かせていた。いつも決定的なことの言えない素人の悲しさが残るが、僕は抗癌剤を続けることへの僕なりの疑問を、そっと出した。しかし奥さんは「折角先生がああ言ってくれるから、もう少しやってみる」と言って、その後三度、四度と重ねられることになる。すべては無理からぬことである。僕でもきっとそうしたかも知れないと思える。一旦医者に掛かれば、基本的にすべて任せるしかなくなるであろう。
 「うーん、またですか?」と僕は3回目を聞いた時いよいよ不安を感じた。肝臓の癌が少しも小さくならないようなのだ。今年桜の満開の季節だったと思う。今度は種類の違う新しい、もっと強い抗癌剤を試したいと言っていると聞いて、僕は唸った。「気分がもの凄く酷ければともかく、緊急なことでないならば当分は止した方がよくはないですか。」と言った。「ええ、私もそう思うんですけど、……。」しかし、「先生が是非といわれるし、もう一度だけ従ってみます。」ということだった。新しい薬というのを病院は奥さんに納得させて、奥さん本人にいわゆる自己決定を迫っていた。
 それから後は、次第次第に悪かった。それ以前でも、1回打つごとに頭の毛はすっかり抜けるのだが、少し生えかけて、また次ということになるのだった。3回目、4回目の頃は、だんだん入院期間が長くなっていた。それでもその度に退院して来られていて、夏までは元気そうに、帰ってくると近所を飛び回っていた。何か作ったと言っては料理を差し入れしてくれたり、遊びに見えたりしていた。この辺で小康を得れば、というのがその頃の僕の思いだった。
 九月の声と共に、だから5回目と思う、また、もう一度だけ、今度でいよいよ最後にします、先生にもそう言いました、と奥さんは言い残してまた病院に行った。そして帰れなくなったのである。
 悲しいかな、医者でない僕は、それ以上強いことも言えなかった。息子達やご主人も、皆な同じ思いだったように思う。「本人が受けるといえば、……」ということ以上には、家族も誰も抗えなかった。そしてご本人は、どこまでもしっかりしていて、一所懸命本を読んだり勉強もしつつ医者や看護婦の気持の忖度も忘れず、我慢強く療養に励んでいたのだ。周囲の誰もそれを押し切る何の判断の根拠がもてない。息子たちも何度も先生に色々聞きに行っていた。もう止めさせたいと何度も訴えたそうである。しかし結局、病院の誘導に従う以外、患者や家族には方法がないのである。
 抗癌剤など打たずにそのままだったら、まだきっと、たとえ質の悪い進行癌であったとしても少なくとも二年や三年は元気におられたに相違ないと思えてならない。いくら薬を打っても、肝臓の癌は始めより小さくならず、夏頃には相当大きくなっていたという。遂に白血球の極端な減少だけでなく、血小板がやられたのだそうだ。癌ではなく、抗癌剤で骨髄をめちゃめちゃにしたということではないだろうか。ひょっとして、薬で抵抗力を低下させたから、放っておけばそのままだった肝臓の病巣が一挙に暴れだしたとも考えられる。少なくとも、癌が小さくなって行かないのに酷い薬を打ちつづけるというのは、どう考えても医者の勝手な手遊びとしか思えない。別に、僕が紹介したからというだけではないが、何とも無力な自分達の状況を情けなく、腹立たしく、申し訳なく思えて、涙が出る。
 殆ど親類同然のつきあいをしていた。僕にとってとても他人事とは思えないのである。大切な身内を理不尽に亡くしたような悲しさ、寂しさが深々とこみ上げる。

  (3)
 先般、九大の西日本生命倫理研究会の席で「患者の自己決定とインフォームドコンセント」という議論があった。僕はちょっと柴田さんの例を紹介して、「自己決定といいインフォームドコンセントというのも、所詮擬態、擬制というものではないか。納得といったって段々のレベルがあり、そういうことが機能するかに言われる社会は一層困った社会だと思う。ここにインフォームドコンセントが行使され、自己決定が出来たゆえに殺されたというような例がある。」と言ったら、そこに集っていた何人かの医者や法律家はその通りだ、と言ってくれた。医者に対抗できる知識が患者にない以上、ここという場面での、厳密な意味でのインフォームドコンセントというのは成立の仕様がないではないかと思う。
 治療法を患者が選択出来る等と言えば一見聞こえは好いが、それなら国家試験で医者の資格を喧しく言うことも半分は無意味であり、患者が選ぶ民間の善意・有為な療法を薬事法違反などと禁止したりすることも出来ないはずである。専門知識のない患者を保護するための法律であったはずのものが、インフォームドコンセントを言うことで医者の責任逃れの体制に役立つばかりの装置となっている。専門家がその専門性において自信と責任の力量が持てない、そんな医療の実体を反映して、医療が専ら法律問題となるというところに医療の現実の貧しさが出ていると思う。生身の医療がその成否を、法律に下駄を預けて測られるというのは、それ自体、人間的医療制度の本質的崩壊ということを物語るであろう。
 現代の医療事情において、あまりにも酷いことが横行するから、患者の自己決定であれインフォームドコンセントであれ、倫理や法律で縛ったり自覚を促す必要は確かにある。しかしそれは、現状や今の医療体制をどこまでも前提した上での、そこに出て来る諸問題への対症療法的擬制に過ぎないということを、倫理や法律の専門家達はどれほど自覚しているのであろうか。そもそも、そんな問題の出て来る根底はいつも不問に曝されているのである。その限り、どこまで行っても新しい問題が次々と惹起され、法曹家はやたら忙しくなるだけであろう。なぜならそれは、人間の関係というものを、初めに互いに利害対立する不信の関係として一般化した上で、自己主張を煽り、結局すべての問題を経済と法律の問題に収斂させていけるかのような、功利的な人間観・社会観に基づいているからである。
 実際の人間関係は、断じてそういうところでは成立していない。だから経済といわず医療といわず、一切の人間的な営みの実際の成立と展開は、不備な現実の制度にも拘わらず庶民の人間的なやさしさや忍耐とその努力によって支えられているのである。つまり万事は具体的な人間関係の信頼性において初めて展開可能となるのである。いわゆる法的制度とは、それら庶民のよき情念の上前を撥ねながら、貧しい現代の人間観を固定して、その指導者たちはひたすら体制を糊塗しつつ、不信の人間関係を拡大していると言うべきかと思う。
 人権とか福祉という標語も同じである。そういうことを声高に謳わねばならない社会というのが、どのくらい悲しい社会であるか、ということを誰も感じていないかのような現代の雰囲気である。しかし本当に、もう他に、人間の人間によるもっと安らかな社会が作れる可能性はないのだろうか。一切を商品化し、根本的には人間不信に基づいて、その関係性の微調整に明け暮れる現代の、世界的なこの大資本主義社会の向かう方向は、本当に微調整で糺せるようなものだろうか。基本的なものの見方の背骨が狂ってしまっていると思われる。
 新しい科学技術や新たなタームを捻出すれば人間の状況はだんだんよくなると、本気で考えられているのであろうか。明治以降の日本の歴史を顧みるだけでも、或いはもっと卑近に戦後の世界や日本の状況を見るだけでも、技術や学理のいわゆる進歩と共に一体どのくらい人間社会がよくなったと言えるというのか。確かに子供の頃は、僕も素朴に科学とは人間のための科学だと思っていた。しかし現代の実際の科学は、科学のためには人間をどう扱っても許されるとくらいに考える、単なる産業のための科学技術に堕している。倣岸というべきか無感覚というべきか、科学は現代の全経済社会を支え人間の最高の知性を担っているかのごとくに思い上がっている。
 科学的発想というその頑迷で傲慢な時代の知性が、どのくらい人を傷つけ殺し、人間性を犠牲にした弱肉強食の社会を作りあげて来たか。一人一人の科学者の主観的な善意や素朴さを疑いはしないが、しかし結局は人間の実存的問題を何一つ感じる感性を失うことによってのみ、こういう科学を推進することが出来たであろう。そういうところに立って見られ語られる現代的世界理解は、殆ど壮絶な迷信・狂信という外ないものである。いかにも病的な生命科学の状況を始め無茶苦茶な経済戦争に明け暮れる、ささくれた現実がそれを証している。
 どうして、不信ではなく或いは唯物的ではなく、信や情や精神の機微に即した人間関係の回復ということが切実な問題とならないのだろう。医療も教育も政治も、あらゆる社会事象が同じ構造である。仕方のない歴史の展開として、誰もが根本問題への立ち入りを放棄している。これが後戻り不能の歴史の必然だなどとどこで言えることであろうか。人間的主体というものを措定し、思想というものを人間が生きているというなら、人間主体の思想力において歴史の根本を糺して行くということでなければ、主体とか思想とかと言ってみても、一体何の話か、ということになるだけであろう。心というものが人間にはあると思っていたが、心とはただ建前の話のことに過ぎず、本当は人間には心なんてないもののようにさえ思われて来る。
               *
 名医はきっと名医であり、世に優れた技術というものはあるだろう。医者が好んで患者を殺すなどということは、基本的にはあり得ない筈である。担当医の仕事上の熱意を僕は疑ってはいないのだ。遺族もきっとそうである。しかしその技術がどんなに優れていると言っても、まだ不明のことは山ほどあるというのにそれを隠してしまうように働くメカニズムは、科学信仰とでも呼ぶべき人間不在の狂信の体系がのさばっているからである。
 場合によっては、つまり気の強い自己主張を張るような現代的な家族なら、奥さんは抗癌剤で殺されたとして、医療訴訟に持ち込んでもおかしくはないケースだと思われる。僕が証人に立ってもいい。少なくとも半々以上の勝ち目がありそうに思う。けれどもお隣の家族は、決してそんなことはしないであろう。心やさしく奥さんを見守り、看護を尽くし、耐えに耐えて最後まで皆なで看取って来られた。ああ、まだこんな家族があると、そういう様子を見るだけでも僕は心が和んだ。訴訟など起こして、例え勝てたとしても奥さんは還らない。そんな空しさの上塗りをするようなことの出来ない暖かい人たちを、現代という時代の思潮は、どこまで食い物にしたら気が済むというのだろう。
 (99・12・23)

 


 法事の温もり、または共同性への視角 

  (1)
 お隣の奥さんの四十九日の法要に出かけた。まだ命日から二十八日にしかならないけれども、きっちり計算したら三ヶ月に渡り、それはよくないと言われたとかで、法要が早めに営まれた。法要の後、納骨も終られた。
 「元気な頃から、この人は忙しかったんです。少しもじっとしていなかった。骨ももう少し部屋においてやりたかったんですが、死んでも忙しそうで。ちょっと淋しいですなぁ。」ご主人はそう言って微笑した。
 法事というものは暖かいものだと思った。昔は元々そうだったと思う。それは人間共同の温かみというものが醸される故に始まったものに違いなく、そうでなければ訳もなく風習となり、外国に比べて馬鹿丁寧と見られるほどの葬式の儀礼がここまで伝統されるはずもない。今は心ない上辺の形式だけのことになりつつあるが。
 両親が元気な子供の頃から、法事だけではないが人が集まって何かする、お祭りのようなものにはいつもどこか暖かいものを感じて僕らは育ったように思う。中でも夏のお盆や法事は、子供心にもいつも他の集まりの賑やかさとは違う何か深いものを感じていた。一抹の淋しさの中にも生と死を一つ所で捉えて、命への畏敬や不思議さに触れる思いがしたものだった。生死一枚の存在の懐かしさとでもいうべきものがあったのである。
 
  (2)
 どことなくお葬式やいわゆる法事が忌まわしいものに感じられるようになったのは、きっと近代の歴史の特殊性によると思われる。個人主義、主体主義、つまり俺は俺、お前はお前というような人間の理解の仕方で、みんな生きて行けると思うようになった時代の雰囲気である。どこまでも長生きと社会的な活動が求められ、金儲けもお遊びも元気よくやれる、そういう生が価値で、そうでないものは厄介ものだと割り切れる、そういう時代には、死者への思いなどは大切になる筈もないと言えようか。
 だから、現代の法事の雰囲気は一般的にどこでも大体白けているかと思う。酒でも飲みながら、集まった者は勝手勝手の話をしているというのが常である。僕は折々法事に出かけて、しばしばそこを逃げ出したくなるような思いに駆られる。特別の深い縁もないような人の場合でも誰かが死んだのである。その法事の席なら、せめて死んだ人がどんな人であったか、どんな生き方や死に方をしたのか、僕はそこで話を聞いたり、感想を抱いたりしたいと思う。しかしそれが、いつも極めて困難であった。そんな話に乗ってくれる人が殆ど見られないのである。死んだ者は仕様がない。もう済んだ、というような具合である。生と死がきっぱり二つに分けられて澄ましておれる、そういう神経に僕は今でも馴染めない。
 そこに集まってはいても、各自勝手な想念しか持ち寄らないという現代の一般的な集会の貧しさは、時代と共にいよいよ酷くなっているが、それは既に明治の頃からであったろうと思う。西洋の知性に憧れ日本の近代化を図る中で、専ら個人の自律ということが謳われた。一見知的な世界ほど冷たいのは、知とはまずもって個人的な自覚のことだと見なされて疑われていないからである。例えば、かの偉大な漱石にも僕はそれを感じる。いったん共同体から切れて、独りで生きることを強いられた漱石は、しかし自己の知を研ぎ澄ましながらやがて再び、自己の内に共同性を取り戻す必要に曝されたと思う。晩年の漱石はナショナルなものへの関心において苦闘したのではなかったか。「私の個人主義」という講演は、そういう表題にもかかわらず、日本人であるといういわば共同的アイデンティティの宣揚という性格が強い。しかしそれは果たされたとは言えないように思う。その後歴史は、反動的な軍国主義を経て敗戦後のアメリカ的デモクラシーの直輸入から現代まで、加速度をつけながら日本的共同体の解体と共同性概念の抽象化を一挙に推し進めてきた。その挙句、僕らは晩年の漱石が苦悩したであろう真にナショナルなものの回復という、自己存在の基底への問題感覚をさえ失わされて来たと思えるのである。晩年の漱石をそういう風に読むのは単なる僕の独断で、漱石はあくまで普遍的なインターナショナルな人間像を追い求めたと理解されていると思う。しかしそれだけでは漱石は解けないと僕には思われる。

  (3)
 現代における共同性の崩壊というのは、思想的な議論としては専ら歴史的社会・共同体の変質とか、制度の矛盾とかの話として、哲学的にも結構深刻に受け取られていると思う。しかし深刻だけれども、それらは近代の現実の社会というものをどうしても維持、発展させなければならないという、いわば現状肯定、或いは現代文明推進の志向において課題とされているものに過ぎない。言ってみれば国際的な風潮に乗っての、人類は一つ、世界国家定立の理想とか、平和の思想とか、最近で言えば福祉社会とかボランティアとか、何でもいいが新しい共同性の構想の必要という課題である。そういう課題が無意味だなどという積りではない。敬愛する滝沢克己先生にもそういう志向があった。それはそれで切実で美しい。けれども、現代の共同性への視角には共通して、見事に死者への眼差しが欠落している。僕ら現代人の死者への思いというのは、単に個人的な愛惜に過ぎない。
 「死人を葬ることは、死人に任せよ」(ルカ、9・60a)という聖書の文言がある。これが現代の一般的な価値観にどれだけ隠然たる影響を与えているか図り知れないと思う。明治以降の西洋の文物移入と共に聖書の言葉も言わず知らず人々の価値観に影響を与えて来た。だから単なる人間主体の可視的生の哲学を、あるべき唯一の哲学としてしまったのである。
 解釈はいかようにも自由であろう。しかし僕らの存在そのものはまず事実的に何より直接死者たちに負っている。日本人の先祖崇拝というのはそういう事実認識から来てもいたであろう。それを何も過大に言うこともない。しかし死者への思いを抱きもせず、生者への思いが所を得るとも考えられない。西洋人と僕らの死の受けとめ方の違いは、即ち生の意味の受けとめ方の違いである。
 今ここでは生死の根源的な意味については何も触れまい。しかし例えば、今はの際の患者に点滴を打つためや怪我させないために、病人をベッドに括りつけるというような大病院の医療の残酷物語を非難することは容易いが、それは自分が見るのが辛いというだけの話とはならないか。どこまでその人の生と死を忖度できるのか、疑いなしとしない。死に行く者への看取り方に、その技法を越えて人間そのものを深く思い遣る想像力は枯渇し果てた感がある。現代人は他人に対する、否、肉親であろうとも、もはや自分以外の人に対する忖度は、したくても出来ないような感覚になってしまったのではないだろうか。だから、それがまるで自然の普通の人間として、人間とはそういうものであるとして自他を理解するようになっている。
 「死人のことは死人に任せろ」、だから「他人のことは他人に任せろ」である。余計なお節介は一切無用、関心はただひたすら自己の生である。従って為にするような幼稚な学問的関心というのは論外として、一見ラディカルな知的関心というものの焦点も、方法的にはただ自己の安寧満足ということに終始せざるを得ない。学問や研究が熱心にやられればやられるほど非人間的になり、冷静さと非情さが同意語となってしまっている。冷静であるということは、その主体にとってどれだけ苦しいことであり、真面目な人生経験とそこから得る深い人間への情愛においてしか機能しない精神の構えかということは、全く想像もつかないような現代の「知性」である。人間の共同性への視点などというものは歯牙にも掛けられないからである。
 そのような個人の集合で共同体を形成しようとすれば、どこまでもどこまでも法律を作り続けて、結局共同体の不成立に行かざるを得ないように思う。それでは人間もいわゆる本能と呼ばれる、動物的な弱肉強食の種の群れ以上にはならないだろう。どこに本当の人間の文化や哲学があると言えるのだろうか。

  (4)
 臓器移植の話の中で、いつか粟屋剛氏は「それで健康に延命出来るという保証があれば、お前でも受けるのではないか。人を殺すなという倫理は、自分が殺されたくないという限りで言える話で、それ以上の根拠はない。」と言った。なかなかラディカルで小気味のいい議論というべきであろうか。保証があるなら僕も受けるかもしれない。しかし少なくとも今は保証は皆目ない。それをあるかのごとく推進するのは欺瞞であろう。そしてやがて保証を手に入れるために、いま試行錯誤しつつ研究を続けているのだとすれば、それは悪名高い旧日本陸軍の満州731部隊の生体実験や、現場の住民の悲惨な被爆を屁とも思っていない原発の放射能実験とどこが違うだろう。あるいは、自分が殺されたくないから人も殺さないというだけなら、単に臆病というもので、それなら命がけで敵に攻めて来られたら負けるしかない。逆にピンチになれば何をするか分からない。
 「殺すな」という倫理すらも、自己自身の保身延命という地点でしか発想出来なくなったということなのである。共同性という人間の感覚が、自己利害の取引の場面でしか発現せず、自分が損な役回りをしないという限りでの人恋しさの感情を愛だの出会いだのと呼んでもいる。自分以外の人間への関心の持ち方が一昔前の日本人からすっかり変ってしまったのである。切実な他者がいなくなったし、それを必要とする実存感覚も薄れてしまった。粟屋氏を非難しているのではない。彼が鋭くそういう現実の状況を開いて見せてくれたということである。
 他人のことではなく、将に自分自身と自分のおかれた状況を哀しいと思うのだ。僕自身が近代の主体主義思想や産業技術の恩恵を蒙っていないのではないが、しかしそのために失ってしまったものの大きさに、迂闊にも今になって想到し溜息をつく。人間とはまことに業な存在だと思う。
               *
 お隣の四十九日法要の忌明けの宴で、故人のエピソードや体験が、静かに、時に哄笑の中に、皆なして語り続けられた。亡くなった奥さんは、その席で実に生き生きとしていた。復活は何もキリスト教のイエスさんの専売特許ではなさそうに思えた。まだ三歳に満たぬ一人っ子の孫が、おばあちゃんの遺影から離れない。 「可愛がってもらったもんのう」と言っておじさんたちは頭をなぜたり、抱きかかえたりする。息子達が眼を潤ませながら嬉しそうに微笑みつづけていた。奥さんはカラオケ教室の世話役もしていた。「好きだったんだから、歌うぞ」と一人が言って、突然びっくりするような大きな音の伴奏が飛び出し、歌い始める。ついに僕も促されて一曲歌った。
 死んだ奥さんと、生きてそこに集っている者とが地続きで、どこか一丸となっている雰囲気がある。暖かい哀しさ、悲しみの温もりが一同を包む。平凡な普通の庶民の中には、まだこういう体温を温存した法事があった。久しく忘れかけていた、人間の集まりというものの持つ独得の懐かしさ、豊かさが蘇った。こういう共同の時と場があるなら、人は従容として死ねるだろうと思われた。亡くなった奥さんから、家族だけではなく僕も大きな慰めを貰っている気がして、久し振りに人間として生きている気色になったのである。
 99・12・26

 
 
     大 谷 先 生 の 葬 儀

  (1)
 大谷長先生が12月1日午後7時15分、亡くなった。三年前胃癌の手術をされ、それ以来弱られてはいたが、直接には肺炎を惹き起こされてのことだったようだ。九十歳直前、満八十八歳であった。
 9時ごろ奥さんから電話が来て、葬儀委員長を誰にやってもらうか等ということの相談を受けた。どうして僕が?という感じだが、晩年大谷先生は弟子達を次々と切った。それで片腕が欠落していた感じである。大抵の人が先生の気に入るようには振る舞えなかったのである。事情は一様でないだろうし個別の深いことは知らない。しかし何であれ先生の見解に逆らうことは許されなかったし、次第に一家を成し中堅以上の要職に登りつめた弟子達が自ずから自信を持ち始めると、態度が尊大だといって先生は怒った。切られたお弟子さんの方が気の毒である。そんなことは世間では当たり前であるから。しかし古風なモラリストは、学問の内容もさることながら、それより師弟の序の関係を先立てた。そのくせご自身はデンマークかぶれのダンディズムとでも言いたいくらいのモダニストで、バニーガールの侍る京都四条の高級クラブの会員でもあった。僕も二、三回はお供している。「先生も隅に置けませんね。」と言ったら、顔色一つ変えずぶっきらぼうに「こういう所でないと立ち入った話が出来ない。」と宣うたものだ。
 「葬儀委員長は、……多分、AさんかBさん、……Cさんにご相談なさるのがいいのではないでしょうか。」「主人が晩年一番信頼していたのはC先生と思いますので、C先生にお願いしたいのですが、おとりなし頂けませんでしょうか。」「はあ、Cさんの都合もあるでしょうから、じゃあ、私から相談してみましょうか。」「お願いします。」奥さんとそんな電話を交し、すぐC、B、A、の三人に連絡を入れ、向こうで相談して貰うことにした。それぞれに働いている力学があるから下駄をCさんに預け、そうして貰うしかない。僕はそれで役は果たしたと思う。明朝午前中に三人が合流するという返事を貰い、ほっとして僕は午後から伺うことにした。そして2日のお通夜、3日の葬儀に参列して来た。
<
  (2)
 晩秋初冬の京都の夜は、さすがに深々とした冷えがあった。まだ雪も氷も見えないけれど、貧しい鴨川のせせらぎも鋭く、落ち葉が方々に舞っていた。こんな季節の空気が、凛とした古人の感性を養ったのだろうということが納得できる。色も音も滅びの美学、あるいは再生への希望の信仰をかきたてる。
 下鴨神社の近くのお寺で集まったので、僕は二日間、昼も夜も下鴨神社の参道を抜けて通った。「落ち葉の季節!」と思わず一人ごちた。足を運んでいる間もまるで何かのパレードでビルから撒かれる紙吹雪のように、夥しい枯葉が降ってくる。足許は一歩々々同じような、また全く違うような、パリパリ、ザクザク、ガサガサ、ズンズンといった音を立て続ける。始めは、一体何を踏みつけたのかと驚くような高い音に出会った。今は削りに削られて名前ばかりの森となったといっても、名にし負う糺の森だ。この音を、清少納言も和泉式部も聞いて歩いたに相違ない。「偽りを正せ、糺の森の神かけて誓え、」というような意味の歌が古今集にあったかと思う。落ち葉の音に、思わずはっと我を取り戻す、そんな仕掛けがここにはあるかと思われた。
 葬儀は至ってシンプルだった。格が違うというのはこういうことかと思われた。その妙誓寺というお寺は、檀家も殆どない、身内だけで守られているようなお寺だった。だから無論、京都といっても観光や政治とは全く関係がないと聞いた。実際ある風もなかった。俗臭がない。お堂は、言ってみれば仏像一つがあるだけで何の飾りもない、涼しい空間だった。全体屋敷は広いのだが、ちょっと見ると料亭のような瀟洒な作りで、泊まりはしなかったが「いつでもどうぞ」と招かれた。張り出しの広い廊下が巡らされ、あちこちに洋間もあり、ピアノも置いてある。調度品はさすがに凄そうなものが見られたが、全体さりげなく放り出してある。綺麗な日本庭園に簡易なお茶席を作って(抹茶ではなく煎茶だが)、そこが葬儀の会衆の場となっていた。庭に幕を引きめぐらし、ストーブが幾つも持ち出されていた。九州や他の地域では経験はおろか見たこともない、簡素な設営の嫌味のない葬儀だった。
 僕らは庭ではなくお堂に、遺族と向き合って座らされた。三人の僧のお経と称名念仏がただ続くばかりなのであるが、その迫力は抜群だった。「蓮如もこんなお経をやったので、あれだけ女にもてたんですね。」と、一緒に座った大谷大学の教授が言った。一時間半に及ぶ称名の単直な響きが、全身を痺れさせるのを覚える。リズムもメロディも単調だけれども重厚なのである。腹に応える。「なるほど、」と思った。一般世俗の仏式の余計な儀式の飾りは、この称名の迫力の不足を補う、あるいは誤魔化すために考え出されたものかも知れない。「これは、やはり病気くらいは治しますね。」「はい。今やってるのは特別の称名の謡い方でして、いつもはこうじゃないです。」「ああ、そうですか、やっぱり。」弔辞も挨拶も殆ど何もなかった。出棺、荼毘の後の、精進落しの料亭の席で、初めて皆なは口をきき合うことになったのである。
 荼毘の斎場は、京都はここ一ヶ所という東山の奥であった。お骨の拾い方も簡単明瞭だった。「箸渡しなんていう風習は京都にはありませんから。」と隠坊が説明してくれる。 順番に二本の箸でお骨を拾った。骨壷が閉じられて、やがて乗り込んだタクシーが横付けされたところは祇園、円山の料亭だった。もうすっかり日が落ちていた。
 
  (3)
 「京都に遊んで、ここを知らないというのはもぐりですよ。」そう言われて潜った門は、「左阿弥」という、五百年、織田信長の時代から続くという老舗の料亭である。流石にバックミュージックをテープで流すなんてことはしていない。若い女の奏でるお琴の音がしめやかである。明治維新には一度ここで御前会議があったのだという。そこで懐石のお膳を前に、挨拶があり、僕らは順に弔辞を述べた。大学紛争の頃からの大谷先生の佇まいが髣髴して、僕も先生と出会ってもう三十年もの歳月が流れているということに、今更ながらの感慨があった。疲れていたがよく食べた。 後から後から京料理が出た。
 帰り道、祇園を四条川原町の方に歩きながら、龍谷大学の先生は「あれ、多分三万円の料理ですよ」と教えてくれた。「柘榴が二粒なんてねえ、憎いというか、勿体つけてか、京は元々材料が乏しいから、かえって料理法が洗練しましたか?」と言ったら、「ああ、そうも言えますねえ。」「魚なんて、川のもの以外は伊勢湾とか、大阪、あるいは若狭、いずれにしても遠くて不便ですね。」
 亡くなった大谷長(まさる)先生は真宗大谷派、つまりお東さんに深い関係があるとは聞いていた。しかし生前ご本人も別に何も口にしなかったしこちらも何も聞かなかったから、それ以上のことは知らなかった。料亭の席で初めて分かった。なるほど、あの気位の高さはそれでかと、色々思い当たることが蘇った。その気位が随分弟子たちを傷つけた。ちょっとしたことでばっさり人を切るということが少なくなかった。「大谷先生に面と向かって強いことが言えたのは村上さんだけですよ。」「そんなことはありませんが、妙に僕は可愛がられました。」出版社だから立場が強いとも。そうかもしれない。少なくとも自由ではあった。
 初めて聞いた大谷さんの出自は、もし得度していたなら、大谷派の総帥、東本願寺の法主にもなれるはずの人だということであった。第三十六代法主の次男の息子で、長男は若死しているのである。母親が皇室と親類の公爵家の出ということもあるが、親鸞の直系の血脈ということが凄い。「どうしても崩れないあの硬さはそこにあったんですね」「ええ、時代と自分の進路を間違った人かもしれない。」そんな話を後で二、三の人と交した。四条に昔からよく京都の文人や大学のご連中がたむろするフランソワという喫茶店がある。「ああ、まだあった、あった、」と言いながらそこに入ってコーヒーを嗅ぎながらの話である。
 
  (4)
 大谷先生には、その出自からくる独特の気質というものがあったと思われるけれども、学問、キェルケゴール研究に賭ける情熱とその一途さは尋常のものではなかった。大体明治生まれの年代の人には、概ね明治の気骨とでも呼んでみたい共通の頑固さや気位が見られる。しかし単に一般的な明治の気質というようなものではなく、もっとそれをはみ出した学問的信念が一貫していた。それはむしろ西欧的な信念、情念だったような気がする。 明治以降、近代日本が輸入し続けている西欧的文化や価値観の、土着ないし受肉の一つの典型的な権化とも考えられる。僕が直接教えを請うた故滝沢克己先生にもそれがあった。誰よりも柔和でリベラルだった滝沢先生だが、自分の専門に関わる事柄に関しては、一厘の妥協の余地もなかったと思う。当たり前のようなことではある。 そういう信念に支えられなければ、何事においても一家を成すということはあり得ない。ごり押しの権威主義者でなければ物分りのよすぎる自信喪失家か、大衆受けを狙うレトリシャンという類の現代の学問とは、立脚の次元が違うのである。
 しかし、それを西欧的信念と僕が呼ぶのは、ともかくも信念の性格が日本的なエートスとは違うからである。同じく日本的な信念が例えば武士道精神とか道の思想という形をとるといっても、そういう歴史的伝統的な信念は生身の現実の共同性において成立しているのに対し、先生方の信念は観念的、個的・主体的に完結していると見られるのである。学問というものは元々そういうものだとも言われるであろう。しかしその限りでは、どこまで行っても学問とは淋しく半端なものだと言わざるを得ない。それでも、一切の軋轢に耐えて初志貫徹されていく純粋さの迫力は端倪すべからざるものがあり、人間のこととして実に魅力的である。 そこには揺るがない学究への信仰がある。信仰とは、そこにおいて世界のすべてを見、受け取る畢竟の命の在処の形である。
 大谷先生は東大の学生時代に和辻哲郎に師事、そこで出会ったキェルケゴールにすべてを見たのだ。学問的研究主題を獲得するというのは、将にそういうことであろう。そういう一点集中、突破ということ以外に、人間が世界と相渡る方法というものはなく、またそれで十分だということを身をもって生き示そうとされたのである。現代流行の軟弱な比較思想論とか科学的客観性などという方法とは比ぶべくもない。僕らはその爪の垢でも煎じて飲まなければならないと思う。
 けれども、そういう大谷先生の本意は、誤解されるのでなければ無視されていかざるを得ないだろうと思う。ご自身の出自にもかかわらず、歴史的、共同的な伝統の信念とは切れており、民族的出自に繋がる回路は実質的に断たれているからである。今は時代状況の全体が既にそうである。しかし、歴史的、伝統的なものから切れて、つまり故郷を出奔して、その上で世界と、つまり人類普遍と、広く大きく連帯するという価値観は、僕に言わせれば現代全体の壮絶な錯覚である。そこからは単なるコスモポリタンかサイボーグしか生まれないだろう。人間的主体の核心は歴史や伝統の時間系に支えられてしか形成されないからである。糸の切れた凧の哀しさを、当分僕らは生きて行かざるを得ないであろう。
 時代の中で急激に変るもの、緩慢に変るものがあり、しかし全体として総てが移り変っていく。何一つ確かなことというものがあってない。変転極まりなく、存在する個物はすべて滅びて行くということだけが確かなことである。その悲しみをどう和らげ、躱すかということで人は文化を作り倫理を謳う。しかし何処までも癒されないものが残ってきて、僕は世界の総てを嘉しつつ、なお赤ん坊のような存在の初発の位置に立たされているように思われる。
 結局日本文化は滅ぼされる。そして西洋文化も必ず滅ぶ。次の新しい世紀はきっと人類が無に返り、それでも人類の生存が繋がるならば、また原始時代からやり直すのだろうと思う。もう俺には関係ない世界の始まりと言いたくなる。そう言って肩の荷を降ろしてしまいたい自分がいた。
                                            99・12・7