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宮崎行・・・・故郷をめぐって

2007年5月23日

宮崎行――故郷をめぐって




「宮 崎 行」

 宮崎に車で出かけることになった。インターからインターまでおよそ300キロ。車はゆっくり走らせ、休み休み行こうと思う。帰途はちょっとこの機会に探って感じておきたい地理があって、九州中央山地を北上しようと思っている。初めて分け入るコースである。 
 南部九州の中央部に市房山(いちふさやま)という綺麗な山がある。昔住んでいた西都市の西側山間部は、その市房の裾野に当るが、その山を眺めて椎葉に入る積りである。その後は高千穂に回るか、そのまま阿蘇まで北上するかは、その時のコンディションと天気と、道の具合で決める。

 九州中央山地というのは、今は車道が貫きどこも開発されてしまって行き放題という感じもあるが、昔は、きんまみち(禽馬道?・木馬道?・馬の通る道。主な道には大抵、山奥まで小さな丸太が敷いてあった。橇を引くのに滑りやすくするためだ。)だけしかないような、深い奥山である。高天原の神話に相応しく、北の暗さはなくてしかも神秘を見せる深さがあって、独得の雰囲気を醸している気がする。猟師や木挽き、炭焼といった山師が住んでいた。何人か、子供の頃内に親しく出入りしていた山師さんがあって、可愛がられた遠い思い出がある。炭や薪、時には猪の肉なども持って来てくれていた。皆な寡黙なくせに喋れば妙にユーモラスで雄弁だった。子供心に、精悍で優しい底知れぬ不思議さを湛えた人たちという、強い印象が残っている。
 「日向木挽き歌」という素敵な民謡がある。刈干切り歌や稗つき節などと共に当時の山師に教わった。山の男達がやって来ると内ではよく宴会となっていたのである。
  「山で子が泣く、山師の子じゃろう、外に泣く子がいるじゃなし・・・
   何で山師の、子が泣くものか、山師ゃやもめで子はもたぬ・・・」
今も体に染み込んでいて、思わず僕も口ずさむことがある。その旋律のテンポと抑揚は深い森林の風音と調和していて、山の神秘を、神秘のままにいかにも親しいものと感じさせていた。

 昔は日本中、そういう山々の親しい神秘というものがあった気がする。東北にもマタギや瞽女(ごぜ)といった山の民が住んでいた。岩手・早池峰山(はやちねさん)の麓・遠野の里は、民話の宝庫として名高い。飛騨山脈や日本アルプスの周辺にも、無数のそんな山里があっただろう。
 ただ北アルプスや南アルプスは、富士山も含めて、ああいうスケールの山岳は、自然の雄大さや自然の神秘さは感じさせても、ちょっと大き過ぎるように思う。山巓が高すぎたり大き過ぎて山そのものが人から隔たり、生命的神秘や霊的存在感はかえって薄れるように思われる。同じ神秘感でもやや抽象的になる感じがする。巨大な山塊地で人々の暮らしと直接関係するのはそれらの山の麓であろう。麓の里山こそ僕ら日本人の山だったろうと思う。そういう点、九州の山々は全部里山の延長である。人をこけ脅す異星のような山塊はない。
 ヒマラヤやスイス・オーストリアのアルプスでも大きすぎて、かえって痩せているように感じられる。世界的、地球的な巨大な山塊・山岳は、珍しさや鮮度は高くても、人の日常の入り込む隙は殆どないから、登山競争や観光には向いていても、山と人との心的交流の奥行きは乏しくなりはしないだろうか。人間の歴史や文化との接点が稀薄な自然は、必ずしも人間の霊性を養う自然とはなりにくい。それに大陸だと、山の向こうに不安な異民族が居たりする。日本の山は何処まで行っても日本の山である。自然のイメージに人間的不安の要素は持ち込まずに済む。
 だからそういうところにも、大きすぎる山しかない大きなヨーロッパや大陸と、繊細な小山の多い小さな島国日本の自然観の、性格の違いの由来があるように思う。征服の対象と目される自然と、生命の母体となっている自然の違いである。

 水の観念でも同様のことが言えるだろう。鰐やピラニアが棲息する濁り水の大河を背景に持つか、急流谷川の奔湍の清水を汲む暮らしがあるかで、水への思いは根本的に違ってしまう筈である。だから僕が一種自然にこだわるのは、暮らしの背景の自然が変ってしまうと、暮らしそのものはもとより、生存の感覚そのものが変えられ、快・不快、喜び哀しみの感性が狂わされてしまうからである。すでに僕らの感性も退化させられつつある。初々しい感性を失い切りたくないから、折につけ山野に触れて、ガキの頃の感覚の想起を通路とし、僕らに本来自然な感性を維持、回復させていたいと何時も思う。日本の自然の愛しさを思う。

 宮崎は綾町に行く。そこに酒泉の森という施設があって、どうやら焼酎のメーカーがそのオーナーらしいが、そこの会場で結婚式がある。綾町は宮崎の山間の自然を売り物に観光行政に熱心らしい。大淀川の上流、美しい天然の金鮎(きんあゆ)の採れるところ、小学生の時に住んでいた山の端の部落に近い。
 宮崎大学の農学部を出て宮崎県庁・林野部局の職員である甥の結婚式は17日である。暢気で平凡だが元気闊達な好漢である。進学の相談を受けた時、農学部は僕も勧めた。嫁は薬剤師だ。「農薬はいかんぞ」と言ったら、「分ってます」と言っていた。
 明16日から三、四日間ほどの旅程である。18日は多分一日中、市房山の周囲をうろちょろしているだろうと思う。         
                              (2003・5・15)

「西米良・椎葉、九州中央山地縦走」

 (1)
 宮崎・綾町での甥たちの結婚式はまあまあよかった。多少のちぐはぐは愛嬌である。仲人なしの式だが、友人中心で100人余りも集まって賑やかだった。随分酷い結婚式をあちこちで見て来た眼には、それなりの配慮や工夫が感じられて、ほっとした。
 その夜、式場と同じ施設に宿をとっていた。ゆったりしていて気持がよかった。夜にはもう蛍が出ていた。宵の口すぐ近くの小川に、懐中電灯を借りて見にも出かけたが、夜更けて女房が寝息を立て初める頃、部屋に一匹源氏蛍が舞い込んで来た。手にとって蛍の香を嗅ぎ、ああ、昔もそうだったと思い出す。かつて宮崎は山中の谷川沿いの住まいだったから、夜な夜な部屋に舞い込んでくる蛍があった。当時は無論別に珍しくもなかった。
 
 翌日、綾の照葉吊橋を見てから西都市・三財(さんざい)の昔住んだ山辺に寄ってみた。綾から車で十五分ほどの処である。山には家の跡形もなく、僕らが住んだ以前の山に戻っていて、大きな杉林が広がっている。傍の小川も、部分部分は護岸工事の跡などがあって様子の変化も見られるけれども、風景全体は昔のままだった。独得の川トンボもいた。赤らみのあるすき透った羽をゆっくり扇いで、いかにも暢気そうに川辺にたむろする蜻蛉。もう一種、同じ姿の真っ黒の羽の蜻蛉もいたと思うがその陰はなかった。川沿いにあった綺麗な何枚かの田んぼは、早くから休耕田になっているようで雑草に被われていた。薊や名の知れぬ黄色い花が咲いていた。
 ここでハーモニカを吹いたなとか、弟とキャッチボールをしたなとか、ここで怪我をしたとか、ここから山に登ったとか、あれこれ断片的に蘇るものがある。何かしら泣きながら辿った道とか、無性に気持ち好かった記憶の残る水辺とかがある。あの辺りで大きな鮒を突いたとか、蟹を捕ったところ、鯰を掴んだところ、妹が溺れて仮死状態になった小川の渕もはっきりしていて、一夏中毎日遊んだ川面に小学生の自分の幻影が立つ。俺は少しも成長していないと思う。この山は時間が止まってしまっている。不思議な時間の感覚に言葉を失う。
 
 (2)
 あの頃、両親も若かった。お袋は村で評判の美人だった。あの華奢な体でよく山の暮らしが出来たものだと思う。山で毎日開墾する日が続いていた。親父が結構力持ちだった。だから自信があったのだろうか。兵庫県・宝塚で日本の敗戦を迎えてから二年目だった。一旦祖父の居た和歌山県・那智勝浦に逗留した後はるばる九州に越したのだった。大阪では闇市だけが繁盛していた頃、宮崎に行けば米がある、芋もあると言って山を買い、一家で乗り込んで来たのである。国鉄の長い長い関門海峡のトンネルを潜って門司、小倉に着いた日のことを、今さっきのことのように覚えている。
 日豊線を降って佐土原の駅(当時の駅名は広瀬)に着き、そこから三財までは馬車を雇った。どこまでも続く田圃、幾つもの村落を馬車に揺られて過ぎた。目的地に着いて暫くは近くの農家の一室に仮住まいだったが、すぐ山の杉の木を伐採して、そこに親父は自分で丸太小屋の家を建て始めたのだった。新緑の五月である。斜面を利用しての、地下室もある二階建てだった。屋根は杉の皮で葺いた。立ち木の杉から皮を剥ぎ取った。僕も手伝ったから要領は今でも身に感触が残っている。
 村人に教わったり手伝って貰う部分はあったようだが、それでも専門の大工や左官を雇っていたという記憶がない。柱を立て梁や垂木を渡し、床、壁拵えまでを自分でやっていたように思う。大阪から二人の弟子を連れて来ていて、助っ人はその二人だけだったと思う。しかし弟子とは洋服屋の弟子である。戦前、大阪で親父の経営する亜細亜被服という会社に来ていた名古屋の兄弟が、終戦直後の食糧難で宮崎までついて来ていたのである。兄を「よしきっとん」と呼んでいた。弟の名は忘れてしまった。元来洋服屋の親父が、何時どこで、大工の技術や農事の知識を獲得していたものか、ついに詳しいことは聞かずじまいに終った。多分出身地の奈良で、子供の時に何か見覚えでもあったのだろうかと想像するばかりである。
 湧水を筧で引いていた。台風の時には筧が詰まり、暴風雨のなか落ち葉掃除に裸で走った。風呂は露天風呂だった。親たちは雨の日には傘をさして風呂に入るという仕儀である。無論電気も来ていない。ランプのホヤの油煙を拭くのが僕の毎日の仕事だった。

 どうしてこんな山奥にまで入ったのか。まるで仙人の真似事みたいな自然主義を親父が選んだ理由は、ついに不分明である。
 しかし一時、僕らはここで育った。子供にとって山野は豊かだったと思うが、一日遅れの新聞だけが頼りでラジオもなかったから、戦後数年の社会動態の記憶は殆ど何も残っていない。美空ひばりのデビューもジャイアンツの川上も知らず、ずっと後に名を聞くだけである。朝鮮事変が始まったとかヘレンケラーがやって来たという印象は残っているが、その程度である。
 ただ当時のある日、林芙美子の新聞連載小説「めし」が絶筆になって、母と二人して残念がった記憶だけは鮮明だ。小説の舞台が大阪ということもあって、小学生の僕もそれだけは読んでいたのである。朝日新聞だったか西日本新聞だったかは覚えていない。二つとっていたからである。僕は毎日小学生新聞というのも読んでいた。「銀河」という少年雑誌も好きだった。あの頃の活字の新鮮さは今はない。

 (3)
 山の思い出はぽつぽつ切れ切れに浮かび出て来る。弟や妹はまだまだ小さかった。具体的な思い出を共有する両親はもういない。いま傍に女房は立っているけれど、そこに滲み出て来るものの色香は伝えようもなく、ただ自分独りの世界である。今更に人間の不思議、想念全体の寂寥を感じる。こうして総べては無と帰して、何事もなかったかのように、時は風に吹かれて消えて行くのであろう。
 車に帰れば「今」に返り、我に返る。一息入れて山を下った。もう昼過ぎになっていた。陽のある間に椎葉まで行けるか西米良(にしめら)で泊るか、まあ行けるところまで行こうと西都市を抜けた。
 天気予報は雨だったが降らなかった。一ツ瀬ダムの湖畔を遡ること一時間、西米良村の中心、村所(むらしょ)に至って疲れを感じた。そのまま椎葉に向かっては日暮れになるが、夜道になっては心許ない。村所で宿屋を見つけた。
 夕食までの一、二時間、一ツ瀬川の清流の川原で遊んだ。ダムの上流に当るが、ここいらはさすがに昔の河だった。白く透明なせせらぎがある。青く深い渕がある。「鮎の投網(とあみ)はこういう瀬に打ったなあ。」「あんな渕には、夜更けに青年達が防水の懐中電灯を持って潜る。眠っている鮎を矛で突くのだ。蟹や鰻も夜の漁だった。」まるで独り言のように女房に語りかけながら、小石を水面に走らせたりした。
 杉材・木造橋では大きさ日本一といわれる新村所大橋を渡って、米良の温泉にも浸かった。米良の山に温泉とは聞いたことがなかったと言ったら、最近、四、五年ほど前に千メートル掘って出たのだそうだ。肌のつるつるする好いお湯だった。
 米良の奥山も三財の山と地続きである。どことなく親しみを感じるのが妙であった。米良から何時も内に来ていて僕とも遊んでくれた浜砂さんという山師がいた。猪の肉や茸をよく持って来ていた。稗つき節や日向木挽き歌を唄って聞かせてくれた人である。一度会いたくて、もう二十年くらいも前になるが探そうとしたことがあった。しかし米良には浜砂姓が一杯あった。下の名が分らないので諦めざるを得なかった。
 夕食時、膳に鹿の身の刺身があった。紅ワインのような色でむちむちしているのに、鯨や馬刺より遥かに淡白だった。肉の肌理(きめ)が細かくて美味しかった。それを食べながらちょっと浜砂さんの話をしたら、五十絡みの宿の女将は、幾つくらいの人かと問う。大抵は分ると言うのだが、さあ、今健在なら九十歳前後か、ずんぐりした山師さんだったと説明しても、心当たりはなさそうだった。米良も広いには違いない。山師という稼業も随分昔に廃れている。もうあの頃から半世紀以上が経っていて、何処もかしこも代替わりをしている。総べては僕独りの、心の幻影となっているようだった。
 
 (4)
 次の日、朝から椎葉に向かった。
 走り出して間もなく、女房と二人して感嘆の声を挙げていた。山襞や渓谷の美しさもさることながら、くねくね曲がる山道の至る所に滝がある。清水が湧き出し流れ出ている。何度車を止めただろう。降り立って手を浸し流水を飲んだり、草花を摘んだり、深い谷を眺めたり、道草を食いくい道を辿った。
 山は好きだから、あちこちの山道の感じも多少は知っている積りだったが、こんな山道は初めてだった。昨日辿った西都市から西米良までも山道であり、昔のきんま道である。しかし椎葉への国道265号線は、予想以上の美しさだった。大型車通行禁止の標識があった。細い道、危ういカーブがあちこちにある。昨日無理して夜の走行にならずによかったと話しながら、午前中に走ることで腹わたまで清らかな新緑に染まる思いであった。
 こんな山で自適に棲息出来る生き物があれば天国だと思われた。古来からの素朴な日本の自然主義の源には、こんな潤い深い自然が控えていたのではないだろうか。かつては日本中至る所に湧水が溢れ、里山は山川の幸を恵み自然の美を競っていたはずである。殆どの湧水が涸れ、だから名水100選だのと珍重される状況は、すでに自然が昔の日本の自然ではなくなったことの徴のように思う。いま僕らが、感動したり大事にしようとしたりしている自然とは、ひょっとしてすでに死に体の自然であろう。だから現代の自然観も死に体の観念である。
 青少年自然の家とかキャンプ村とか、あちこちに山野の施設が一杯出来ている。それ自体がどんなに不自然なことかということを思いもしない風である。結局自然とは人間が上手く利用するためだけにあるような、そんな自然への誤解しか植え付けまい。エコロジーの思想とか運動という志向も、大抵は文明の言い訳のための企画に過ぎないだろうと思う。じゃ、どうすればいいんだと反問されそうだが、古来からの民族の文化に誇りを置けず、いたずらに世界を謳い西洋に同調するような思潮が支配する限り解法はあるまい。
 市房山系の椎葉への道に広がる風景は、まだ残っていた日本の自然の原郷を感じさせた。ある程度の予想はしていて、だから一度通ってみたかったのだが、予想以上で嬉しかった。紅葉の時期にもう一度来たいと思った。いずれ僕らも単なる見物客でしかないのだけれども、ただ眼を楽しませるというだけでなく、こういう山の気に触れて、来し方行く末の、自分自身の出自の帰趨を感じたい。
 真直ぐに走れば一時間ちょっとくらいの道のりを、道草道草で四時間あまりもかかって椎葉に着いた。椎葉がまた広い村だった。柳田國男は壱岐全島よりはるかに広い面積と書いていた。そこに広がる山肌のあちこちに26ないし27の部落があって、椎葉神楽は一つ一つの部落で道具や様式もまるで違っているというような多様性があるという。柳田が滞在した嶽枝尾(たけのえだを)部落の中瀬家を覗き、また少し走って上椎葉の鶴富屋敷に至って休息をした。
 椎葉にも一度は来たかったのだ。柳田の『後狩詞記』の舞台である。明治の末、柳田はすでに椎葉の山村生活や狩猟のあり方が衰退気味であることを懸念している。文明開化はのっけから日本を根底的に変えて行く、そういう歴史の宿命だった。いま僕らも車で乗り込んでいるのである。山々や椎葉の村に対しても、どこか一抹の恥ずかしさを感じずにはいられなかった。はにかみつつ遠慮がちに僕は車を走らせた。仕方ないではないかと自己弁護もしつつ。
 まだまだ山の気の深い、潤いのある椎葉と見たが、徐々に徐々に廃れさせられて行くのであろう。都会から遠い分、荒廃のテンポが少し遅いというだけで、そうでなければ暮らしが立たないようになっているから、どんな工夫も鉄砲に竹槍である。
 鶴富屋敷で食べたざる蕎麦は、いかにも都会の味だった。

 その後は真直ぐ高森に出て、阿蘇・小国を抜け帰り着いたら深夜だった。とても高千穂に寄る余裕はなかった。総行程750キロ、日田から高速に乗ったが、最後のそのコースは辛かった。体力ギリギリの限界までを走ったかと思う。やはり歳をとったなと自覚せざるを得なかった。                 (5・21)
 

 


   

  「故郷喪失の現在」

 時々思い出したように前触れもなく、きっとお茶を抱えてやってくる男がいる。少し前まで八女のお茶園で働いていて、そこを辞めた後も、新茶だの秋摘み茶だのと言って煎茶を持参してくれる。ここに来るにはお茶を持って来なければならんと決め込んでいる風である。僕もお茶は嬉しいから、にこにこして迎える。
 農薬が酷いということを何時も話して行く。農薬で体調を壊して茶園を辞めたのであった。山好きの自然派で、九州の大抵の山は登ったともいう。屋久島は凄いと、色々話してくれる。僕も一度行ってみたいがもう体力が不安だなあと諦め顔で応ずる。

 九州中央山地の市房山も好いと言い出したので、この間その近所、宮崎に出かけたことをちょっと話した。すると「村上さんは、古代史を歩いてますね。」と言う。「奈良・大阪から宮崎・西都原ですか?」「ああ、大阪から宮崎の間に紀伊・那智勝浦がある。宮崎の後博多経由で対馬。」
「そうでしょう、それ、全部古代史の主要舞台ですよ。」
「うーん、そう言われればそうだね。まあ、日本中至るところ古代史の舞台ではあるが、確かに要所要所ではあるか。」
「少なくとも何処も、みんな京都以前のところですね。で、どうですか、何処も故郷みたいな感じですか?」
「うーん、思い出はあってみな懐かしいし、子供の頃に焼き付いた風景は、まあ故郷のようなものだろうが、でも、故郷とは言い切れない寂しさがあるね。」
「何でしょう、それは。」
「自分の故郷というのは一代では出来ないのと違うかな。親が住み着いたところで生まれて、そこが子供にとってはとりあえずの故郷となると言っても、親が何処かから流れて来たというのでは、流れものの子だね。三代目くらいでかなり定着感は生まれるだろうが、それでも歴史というものが熟す時間は不足だろうね。先祖というものが住まっていなければ本当の故郷とはならない。日本の古来の宗教・神社の宗教というのは、本質的に先祖祭りだよ。」
「ああ、神社ですね、村に必ずある。」
「神社中心の信仰が稀薄になることですべてが軽薄になった感じがあるな。だからマンションやこの辺の団地は無論、一定の人々の集合はあるといっても現代の町の住人は皆根無し草となる。僕ら皆な故郷喪失の根無し草さ。根無し草は根のない文化しか生めない。哀しいね。」

「それで分りました。十年以上住んでいても八女が自分の村にならないということ、悩んでいたんです。当たり前ですね。」
「旅や漂泊や故郷脱出という志向もあって、そこで作られる文化もある。けれどもそれは、脱出してもまた帰ろうと思えば何時でも帰り得る、或いは自分は帰れない事情があると言っても、係累はちゃんと守っている先祖鎮座の故郷ががんとして存在していることが前提で成り立っていた文化のように思うな。それが現代人には見えない。広い世界がある、古い故郷なんて大したことないと思わされている。それで帰る故郷はもう全く失くなったさ。そういう状況が困った宗教を生み出したりする。自覚はされていなくても、帰るところが人間には必ず要るから、具体的な故郷がなければ、個人的レベルで天国直通を考えざるを得なくなる。神や佛に直接結びついて私は生きる、故郷は天だ、神の国だという主張が始まる。その代表がキリスト教かな。創価学会もそういうところがあるかも知れない。キリスト教は新興宗教じゃないといっても、その本家さ。故郷喪失の彷徨えるユダヤ人から始まって世界宣教、つまり世界侵略を企てる。世界中の人々のそれぞれ土地に根ざして生きている多様な故郷を片っ端破壊して、世界を一律に扱い人間をバラバラの個人に分解した上で、さあ、この信仰があなたを救う、とやるわけさ。歴史に根ざした人間の具体的な関係というものを根本から転倒させて、単なる個人主義を生むね。」

「結婚式やお葬式でも個人主義ということですか。ホテルや斎場の業者主導で、おしゃれに形を作って殆ど宗教抜きという感じですね。」
「そこに雇われて神主、牧師、坊さん達が出て行って日当を稼ぐ。神主さん達がそんな招聘を拒否してくれたらいいんだけれどもね。神主さんも暮らしがあるからなあ。儀式をやるのにどうして神社やお寺に出向かないのかなあ。神主さんがホテルに出て来るなんて本末顛倒さ。すると今度は、往診で出て行ってやるべき医者はドンと構えて出て行かないということになって来るね。動くのもしんどい病人が足を引きずって病院に出かけて行って見て貰わざるを得ない。何か変だね、それが通常の形っていうのは。合理的というのは、企業や優越者の都合の合理性ということで、人間的・根本的には不合理なシステムが幅を利かせてるってことがよく分るさ、ね。」
「本当ですね。お茶の農薬と一緒ですね。自然や健康を無視してただ生産性を上げるために農薬を撒きますが、生産の合理性は人間にとっての不合理性ですからね。」
「最初のボタンの掛け違いという比喩があるね。近代の風潮とその矛盾というのは、その最初に、自由とか権利とか民主主義とか解放ということが最も大切だと見做した、その最初のボタンが違うんだね。そういう人間観の捉え違いからすべてが始まる。自由自由って言うけれど自由なんて、あると思う?」
「あ、ないですね。あっても人間の幸福とは関係ないように思います。」

「そうさ、みんな幸福は求めるけれども別に自由なんて求めてもいないよ。自由と幸福は直ぐ同じではない。それを、幸福は人間の自由というものにある、自由は幸福だと、幸福と自由を即イクオールで結んだのは西洋近代の思想だね。きっかけは政治的なファシズムや圧制が酷かったから、それに抗わねばならなかったという事情はある。政治的権力から市民・人間が解放されねばならないという、それは確かにある。あまりにも過酷な歴史状況が西洋やオリエントにはあったからね。今でもまだまだあると思うよ。近くはブッシュ・アメリカのイラクだね。」
「イラク、アフガニスタンは酷いですね、全く。」
「しかしそういう国家主義的な権力の圧制からの市民の自由というのは、人間個人の幸福の条件としては、ごく最初の初歩的原始的一歩というだけだね。国家権力からの一定の自由があるからと言って、それが本当の自由だったり幸福の本質だったりするわけはない。状況の過酷さから来るいかにも貧しい幸福観と思うな。国家権力というのは、元来国民の自由のためになければならないもののはずなんだ。それが、いわゆる権力と個人の自由が対立するというのは、歴史の未熟というか、権力の形がまるでなってないというか、世界中がそんな風で、権力と個人の対立を皆な必然の理だと考えてしまう。その点、しかし日本には西洋のような酷さはなかったさ。戦前の軍国主義が批判されるけれども、軍国主義は軽薄に日本が西洋を真似たために出て来た日本の鬼子だね。だから実体も全然違うところがある。天皇制を西洋ファシズムと同じように見たのは、西洋輸入の歴史観で戦後の教育が展開されたからだ。西洋的民主主義を規準に大東亜戦争が裁かれた。あの戦争を僕は別に擁護などはしないが、西洋民主主義の過大評価で、古来からの日本人の精神の在処が見えなくされてしまったね。」
「・・・・」
「国とか町・家というものでも、要するに人間が共同体を形成する限り、その中心となる権力というものは必ずあるわけで、なくては困るわけで、そういう権力からの自由は必ず限定的なものに過ぎない。本当に自由なんかにはなれないし、なったら共同体は崩れるさ。だから権力からの自由を主張するということは、権力に対してもう一つのイデオロギー・主張を立てるということになるか、もしくは無政府主義のニヒリズムとなるか、或いは少しも自由でないのに自由であるかのごとく権力に迎合して私腹を肥やす経済主義、つまり個人主義・主体主義しか生まない。いずれにしても権力に対する自由という概念は恥ずかしい思想だよね。個人主義を前提にした思想だから、権力の方はまた権力で横暴な勝手なものとしてしか機能しないし、誰も本当の権威は認めないわけだから権力は暴力とはなっても本当の権力というものは成立していない。大体権力という概念が半端な概念で困ったものだが、問題は、共同体の権力か個人の自由か、という所にはない。問題は権力が本当に権威ある人間共同の権力として、万人のための権力であるかどうかだ。そんなあるべき権力というのは西洋にはかつてなかったと思う。現代にもない。だから一般的に権力というだけで頭から非人間的なものだと言うほかなかったんだね。
 しかし日本には沢山あったと思うよ。いわゆる封建時代、江戸時代の藩政などは押しなべて現代の民主主義なんかよりよほど本質的に民主主義だったと思うな。恩田木工の『日暮硯』などね。それを誰も見ようともしないね。こんなことを言っても誰にも聞いては貰えないが、正当な、万人のための権力があるならば、その権力に喜んで従い、それが国民の幸福を保証するということがあるはずだ。するとその権力の一大事があれば、そのために人は死ぬことも出来る。本当の自由というのはそういうことではないのかな。自分の好き勝手なことが出来るというだけでは何の自由でもないさ。本来的生命の疎外だもの。誰も好き勝手をしたいなどとは思っていないと思うよ。」

・・・そんな話をした。        
                                       (5・30)