background-image

人間観への問い

2007年4月28日

(粟屋剛・村上一朗往復メール)              04年9月
   「人間観への問い」・補遺――欲望ということを巡って   
                        粟屋剛・村上一朗

 粟屋剛氏(岡山大学教授)から、僕の昔の原稿を何かの参考に見たいから送れと言われて、送ったらすぐメールが来た。そこからまた愚考の続きのような、或いは会ったら何時でもやっている議論のような、おしゃべりを展開した。以下はその粟屋氏との往復メールである。多少補足した部分がある。
 粟屋氏は、いま九大を本拠に僕らがやっている西日本生命倫理研究会を一緒に呼びかけ、立ち上げた仲間である。岡山大学でも独自の研究会を主宰されている。世界の先端医療技術の動向や、臓器売買の実情などをインド、フィリッピン、アメリカなどに単独調査・取材に出かけたり、氏はその意欲的な活動で注目を浴びた。NHKの解説番組にも引っ張り出される。今やその道の売れっ子である。――(村上)


*9・7
村上様
早速にお送りいただき、ありがとうございます。

人格改造を超えて、「人間性」の改造は可能か、許されるか、というテーマに言及せざるを得なくなり、村上さんの御論考を思い出した次第です。「教育によってよりよい人間性を持つ人間を作る」などというなまやさしいことではなくて、遺伝子操作などによる人間性の改造が将来的に問題になりそうです(すでに議論のみはありますが)。

私は「人間観」についてまったく不勉強です。村上さんの深い人間洞察に賛同します。ただ、一般に、「人間はエゴのかたまりである」などという表現がなされる場合、それは、人間の一面(のみ)を指していると思います。さらに言えば、このような言説は、人間が「そうあるべき」とか、「それでよい」とか言っているのではないと思います。

ついでながら、私が、「文明は欲望充足システムである。現代は徹底的な欲望充足社会である」などと言うとき、そこでの「欲望」の語は、「欲求」を含む広い意味で用いています。どす黒い欲望・健全な欲望(?)から生理的な欲求までも含みます。プラトンの「人間は欲望の束」、ヘーゲルの「市民社会は欲求の体系」、ドゥルーズ、ガタリの資本主義は欲望の機械」などと同じような使い方(??)です。
御論考、何らかの形で引用させていただきます。またいろいろ御教示いただければ幸いです。ありがとうございました。                粟屋 剛


●9・7
仰ること、よく分かると思います。
欲望の広い意味はそれでいいんだと思います。ただしかし、そこから人や物を見始めると、客観的に観察しているように見えても、どうしても視点の一面性が脱せられないと僕には感じられる。プラトンのコンテキストがどうなのかは息子に聞いてみようと思いますが、ヘーゲルやドゥルーズは、やはり近代的主体主義のベクトルでものを考え、そこから「欲望」という概念が実体化され視点化されて来ているだろうと思います。

人間は欲望存在でもあるが、超欲望存在でもあります。花を見て思わず美しいと思う感動は、主体の欲望以前に、所与の事実に真っ直ぐ感応してそれを受けるという、生命的存在性の感動ではないですか。その感動が動因となって、その花が欲しいという欲望は起こるでしょうが、その意味では欲望より前に感動の質が問われてくる、そんな風に思います。

主体的な欲望の発露に先立って、まずはオギャーと生れて来たというような非主体的な受身の存在性があり、そういう事情を総括して滝沢克己は、人間とは「非主体的主体」である、と規定しました。それは、単なる主体性というものがあり得るかのごとく夢想する近代主義的人間観批判の根本的視座たり得ています。そういう視点を外して人間を考えるわけには行かないでしょう。ただその際、それでも存在の非主体性の掴み方が主体において問われて来て、そこで主体性の成立が謳われることになりますから、それだけではまだ、結局は近代的・主体主義的な人間像に収斂して行く傾向が止められないと思われます。

欲望という概念は近代のものであると共に、元々キリスト教的なものだと思います。キリスト教の原罪とは欲望のことですね。広い意味の欲望です。だから最も基本的な愛という概念でもその意味付けにおいて、人の愛と神の愛を分けなくてはならなくなる。いわゆるアガペーとエロスです。信仰によって人の愛(エロス・欲望)は神の愛(アガペー・本当の無償の愛)になる、或いは近づく、とされる。ルターが「信仰のみ」と揚言したのもそういうことでしょう。つまりどうしても意識的な信仰告白が大事なメルクマールとなります。それは要するに人間の信仰・技(業)・だから思考・技術・要するに主体的決断・選択のことです。即ち信仰という名の主体的意味付けを押し出すことによって、人間的欲望の自由解放に向かうことになる。だからそこにしっかりと人間至上主義・欲望放任主義は嵌って来ます。西洋主導の近代主義的テクノロジーが野放しにされて来た所以です。野放しの根拠を形而上学において保証して来ていると思います。

仏教でも無論愛は欲望で煩悩の最たるものです。煩悩を払拭するために様々の行が考えられる。しかし救いの根拠が仏の愛や信心の決断にある等と、キリスト教のような押し付けがましいことは言わず、もっと控えめにただ仏の慈悲と呼ぶ。つまり人間の欲望を放任しているように見えて決して欲望を実体化せずに、それ以前の命への慈しみというか、初発の感動のあり方の方へ目を向けようとする。そこがキリスト教との大きな違いです。禅宗系・浄土宗系を問わず仏教も甚だ不徹底だと僕は思っています。しかし、キリスト教のような罪(欲望)の実体化や、従って人間の技の実体化・視点化を図って人を審くようなことは普通にはしないと思います。

人間、欲望が失せたら死なねばならないわけで、欲望自体が悪かろうはずがない。しかしどうして欲望が衝突して悪しきものになるのかと言えば、どこかで欲望というものをはき違えたんですね、きっと。どこではき違えたのか。多分、広い世界というものへの不用意な憧れが人の暮らしの足許を忘れさせた。近代の日本人は世界というものを専ら西洋だけに見て、いかにも田舎者めいて西洋の文物を闇雲に受け入れた。そこで人は、人間の共同性において、近隣の人々皆なと共に幸せにあるのでなければ自分自身の幸せもない、ということが忘れられた。

だから「人々と共に」という言葉だけは飛び交っても所詮、抽象的な人類だの国際性だのという世界大の観念の上滑りしか生みません。足許の人間関係は空洞化され、友人や家族の関係までが、単なる自己の欲望実現のために互いに利用し合えば済むかのような、二義的な淡白なものでしかなくなった。個人主義や主体主義を無造作に煽ることで、人間共同体の共同性を等閑に付し、人間をバラバラに解体した。その結果、皆なが身を守るための欲望は、他人のことには構ってられないという欲望になってしまった。みんなと一緒に喜ぼうという欲望ではなくなって。だから近代の価値観は人の生来の存在感覚までを狂わせて来たと言えます。

大昔から本能的な欲望はただ見境もなく利己的で無法なものだったと考えられがちですが、どうしてそんなことがあるでしょうか。それなら人間が共同の歓びを感じたり人々と共に笑い興じたり出来るものではない。本能とか欲望という言葉を使うなら、個的な欲望を超えて共同性に向かおうとするのも、人間の本質的な大きな本能・欲望だと言わねばなりません。大抵の動物だって一族は仲よく助けあって生きている。同族殺戮をやるのは人間だけだと言われたりしますが、単に弱肉強食の利己主義が先天的・本性的な第一の属性とでもいうのなら、人間の倫理とか文化というものは初めから成立のしようもなかったことです。

法蔵菩薩の四十八願というのがあります。浄土系仏教の根本経典たる大無量寿経です。そこには、地上の最後の一人が救われ切るまでは自分は救われた、幸せだとは言えない、言わない、という意思が貫かれています。色んなバリエーションでそれが言われ続けます。これを人間共同性に基づき共同性に向かった、人間観の基本原理と読むような読み方は仏教者にはあまりないようですが、僕はそこに本質的な人間性を感じます。個人の救済という視点だけではどんな個人も救済出来ない。まして人間存在というものを要素分解するかのごとく、個と共同性・共同的人間関係を切り離して、それ自体として個人を立てたり寺院や教会の共同性が謳われても、そういう個や共同体は虚構に過ぎない。その何処にも生きた人間というものは住んでいません。

四十八願の第一願は、「たとい我、仏を得んに、国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ。」と言うのですが、ユダヤ教・キリスト教の選民意識や神と人との契約(新約・旧約聖書)などという思想と比較すれば、その歴然とした違いが見えると思います。キリスト教の契約という観念の救いがたい人間主義。契約とは、そこにどんな高邁な理念が盛られようとも、要するに主体同士の対等の主張と、同時に必然的に弱者への圧倒的な服従強要と審きを含む観念だからです。そういう律法主義・主体主義が無化されなければ、人は誰も真っ当には生きられないでしょう。僕にはカラオケで時々歌うテレサ・テンの「時の流れに身をまかせ」という演歌の「約束なんか要らないけれど・・・」という恋人への訴えの台詞の方がよほど真実らしく聞こえます。
                                 (村上)


*9・9
村上様
 実に深い御見識、ありがとうございました。おっしゃること、よくわかります。私も、人間(近現代人のみ?)は欲望的存在(少なくともその一面を持つ)とは思いますが、「そうであるからそれでよい」とはもちろん思っていません。このあたりはまったく不勉強なので、これから、耳学問も含めて、勉強します。リバタリアンとコミュニタリアンの対立の図式についてもまたの機会(次回福岡?)にお教えいただければ幸いです。なお、私は、文明論的には、(現代)文明自体に欲望の(オート)コントロールシステムを組み込む必要があるだろうとは考えています。   粟屋 剛


●9・9
欲望のコントロールシステムというのは古来から禁忌として諸局面にありましたですね。共同体の中に共同性保持・伸長のために、倫理というものが貫かれていました。それを近代は封建的とか迷信と言って味噌も糞も一緒に解体したのです。迷信もあったろうと思います。しかし大方は端倪すべからざる根拠があったと思います。しかしどうして自分達の伝統的な価値観の放擲をそんなに早まったかと言うと、一つは国際資本主義的な新たな階級社会の出現、つまり金だけが物を言う社会のマーケット化とその覇権主義の跋扈ですが、思想的には共同性理解の油断というか、近代的価値観の根本的錯覚に由来しているように思います。禁忌を含む昔ながらの共同体の倫理が、人間「共同性」保持のための必須の条件を備えていたとは評価し得ず、それをただ「共同体」(つまり実体)の保持・保守のためだけの単に政治的な産物ででもあるかのように見てしまった。近代的歴史意識の深い隘路です。現代の天皇制論の貧しさを見れば分かると思いますが、権力論で国家論が片づくと考えるくらい貧困な近代思想です。

君の言われる、欲望の(オート)コントロールシステムというのは、僕の考えでは人間共同性の再評価なしには果たせないように思います。共同体の種々相は共同性理解の仕方の種々相です。現代の思想は人間共同「性」への理解を欠いているのに、グローバル共同「体」を志向しようというわけですから、盗人猛々しいというか屋上屋を架するというか、矛盾が矛盾を生むのは当たり前で、総ての志向が滅びへの一里塚となって来るように思います。  (村上)


*9・10
村上様
視点を変えてお尋ねしたいのですが…。「人間の本性」というものがあるのでしょうか? あるとすればその中身は何なのでしょうか? それは不変なのでしょうか? それはどこから来るのでしょうか?
 最近、遺伝子操作テクノロジーとの関係で上のようなことを考え始めました。次回研究会終了後の懇親会の折にでも御教示願えれば幸いです。      粟屋 剛


●9・10
まあ、凄い設問を受けて、応えようもないです。僕の方が聞きたいです。
何かあるだろう、なければならない、きっとそれはこういうものだろう、と見当をつけて人は生きて行くのだと思いますが、それが一義的に定義出来るくらいなら蟹も横に這わないというところでしょうか。その「本性」の捉え方の違いがキリスト教だの仏教だの無神論者だのと様々の宗教(無宗教という宗教を含めて)の流儀を生んでいるでしょう。一義化した途端人間の理論というのはどんなに精密な理論も、精密であればあるほど困ったイデオロギーとなると思います。

古来その問いを巡って百万巻の書物が出され、気が違うほど哲学者は考え抜いて来た。その上での現代の状況です。だから、それを問わずにはおれないというのが、本性といえば本性と言えるかも知れない。答えはなくともです。しかし問うからには答えが欲しい。どうも混乱はそこから始まるような気がします。どんな答えも、そうと言えないことはない、そうとも言える、ということ以上にはならないのに、それでは満足出来ず、その先に行きたいと思うからでしょう。

どうして人はそんなに焦って先に行きたいと思うのでしょう? 究極真理を求めて知性や悟性を働かせ、ものを思い考え何処までも進歩的な文化の創造に向かうのが人間の必然・本性だというような意見がありますが、本当でしょうか。ただ実在・実存している日常の現実が余りにも不幸だから、白けていて掴み所がないから、それが逃れたくて観念の世界を肥やしたいとしているだけではないだろうか。能動的・積極的に働いて汗する快感を得たいとするのも人間実存の一面ですが、安寧を求めてただ安らぎが欲しいというのも他の一面だと思います。それなら、何も人間の能動性ばかりを煽ることはないではないか。古来の人間の素朴な共同性・共同体には確かにそういう安らぎがあったと言えないでしょうか。その上で、現代までに凄い美しい人間の文化を培って来た歴史というものがあったと思います。そういう歴史を虚仮にして、ひたすら人々を競争に駆り立て主体性・能動性ばかりを無意味に煽る現代の風潮です。子供だって疲れ果てて方々酷いハレーションが起るのも無理はないでしょう。 

究極の唯一の神という一神教・キリスト教が世界宗教となって近代を被ったのは、そういう不幸な現実において、観念を肥やさないとわが身が持たないという人間の弱みというか、究極真理を欲しがるような想念の隘路を突いているからだろうと思われます。オギャーと生れた生まれながらの人間的生命を、無条件に受けて祝福するというのではなく、原罪が逃れられないとか、信仰させねばならぬとか言って、好んで先ず無辜の存在を傷つけておいて、その上で人間の態度を問う。つまり主体的・能動的能力を競わせようとする。要するに選民の思想です。それなら誰も負け組になど入りたくはない。人々は勝ち組に与したいとばかり、そんな無情・非情な低俗な想念に取り付かれて、改めて我とわが身を傷つけるのです。そういう人間の最大・最終の迷い・人為的後天的煩悩につけ込んで、キリスト教は観念的・一義的な回答を提示し、世界的・歴史的なイデオロギーとなったと思います。

いま九大で三島淑臣先生らと井筒俊彦の「意識の形而上学」を読んでいます。「大乗起信論」の解読という内容ですが、そこでは妄念即真如とか仏心即衆生心とか言われて来て、現象態はすべて虚仮・妄念でありそれを脱することは出来ないが、妄念に真如が嵌っているんだと言われて来ます。しかし無論真如なんて実体ではない。それを実体化して捉えたいとするのが妄念ですが、要するに人間の本性なんて、言葉では捉えられない、つまり人間にはしかと把握出来ない。出来たとしたらそれは必ず妄念だというような話です。だから生命的存在とはそのくらい大きなものだとも言えると思いますが、その限りそういう存在のスケール・大きさを受けて、その受け取り方を自らの全身に問うことがつまり答だと言えるでしょう。その問い方を深めるべくお互い、そういう問いを問いあって行きたいと思うばかりです。  (村上)


*9・11
村上様
いろいろと御教示いただき、ありがとうございます。実は、角川から『欲望の世紀―テクノロジーと人間改造―』と題する新書を出すのですが、その中で、遺伝子操作によって人間の(悪い?)性質を変えることを主張する人の見解を批評する必要が出てきて、困っているところです。人体改造や能力増強(エンハンスメント)などについてはネタもいろいろあり、すでに相当書いているのですが、個人の人格改造や、種としての人間の性質(人間性)の改造などについては、そもそもの人間観や人間像のあたりからして難しいのでどう書くか悩んでいます。それでこのあたりにお詳しい村上さんに教えを乞うことにした次第です。次回研究会終了後の懇親会の折にでもさらにお話しできれば幸いです。ついでながら、動物行動学の立場から人間を見るとおもしろいようですね(特に、私は日高敏隆さんのファンです)。      粟屋 剛


●9・11
ご健闘お祈りします。ぜひ面白いものお書き下さい。
僕には何にも分からない、何も知らないですが、そんな遺伝子操作が可能なら早くやって貰って、まずそういう操作をしたがるような人種の性質を変えて貰わないといけません。

種としての人間の改造なんていう発想は、動物の一種として分類された限りの人類というような人間把握から出発するのでしょうが、唯物論的なこれまでの西洋医学の帰結でしょうね。クリスチャンには神への冒涜だという人もありますが、キリスト教の敬虔な信仰には、「イマーゴ・デイ」(神の似姿)というのが入っていますから、根本的には別に齟齬はないだろうと思います。自分達が限りなく自分達自身の神に近づくことは悪いことではないはずです。そこにやはり人間観の問題は出て来ますですね。

人類学や動物行動学の面白さは、昔の今西錦司さんや河合雅雄(河合隼雄は大嫌いですが)、日高敏隆さんでも決して唯物主義者やイマーゴ・デイ信者ではなく、それで人間が分かった、動物が分かったなどとは言わないですね。今西さんはその住み分け理論で、何でか分からんけれど、そうとしか言えない、という言い方をよくされていました。日高さんのものはあまり知らないのですが、でもやはりそういうマージナルなところで搖蕩い遊ばれている風がある。そういうのが人間性だと感じられるのですが、人間が搖蕩いの遊びを失くしてギスギス神様に近づかされて何が面白いのか。やっぱり人間観の問題でしょうか。同時に、一種主知主義的になった現代の人間の業(ごう)というか、時代の不幸の大きさということを感じます。

昔から仏教が呟いていたような末法の時代の、末世の状況を僕らは生きているのでしょうか。自分の無力を自覚して、ただ僕は哀しむしかありません。  (村上)