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福祉と芸術

2007年4月28日

福祉と芸術  

                       村上一朗


1、表現の位相(信仰と儀礼)
 (1) 人間の表現とは、まず主体的には、個が単なる自然的個のレベルを超え行こうとすることだと言えると思います。個人的主体がその個的な自己自身を破り、自己を超えて行こうとする、それが主体における表現の行為というものの意味だろうと思います。いわば自己という閉じられた心身の内部を開き、単なる個としての自己を超えて行くということがないと、いわゆる自己・個そのものの存在の意味が掴めない、生命的充足が得られ難い、ということがあるからであります。それが人間というものであり、表現とはそういう人間的心身のあり方であります。従って人間の表現というものは、人間的心身の統一点に関ると言うべきですが、無論同時に社会・共同性に関わるものであります。
 それ故、表現の主体においては、その心身の統一に関わるという意味では心にも身体にも関わりますから、そこで心に力点が掛かれば言葉や無為の祈りが、身体にアクセントが置かれれば踊りや武芸・諸芸が起こり、それぞれが洗練されて行くということになるでありましょう。五感六感に即して、美術、音曲、諸芸技が起こり、それら総てが動員されて人間的表現というものを形作っていると思われます。
 そういう事態を総称して、表現即文化と言ってもよいかと思われますが、現代における文化という語は極めて軽薄なイメージが伴ないますから、かえって表現とは超文化であると私は言いたいと思います。

 (2) 表現とは常に主体的なものであり、芸術などと呼ばれるものは特に個的・個性的な心身の表出でありますが、そういう表現主体における表現が、単なる個としての自己を超えて行こうとするものだということは、では何処に超えて行こうとするのか。超え行く先に何があるのか、ということがあります。
 そこで人間的表現の歴史というものを省みる必要があるかと思います。すると歴史的に人間の表現と呼べるものは、原初的にはまず何より、一定の共同性においてその共同体を成立させている、共同体成立の根拠というものを感知して、その根拠を神の存在とその恵み、というようなところに見る、そういう宗教的な観念として顕現されて来ます。自分たちの共同体が形作られて来たその根拠としての、神様と呼ぶような自分たち自身を超える大いなるものへの感謝と祈りとして、言葉というものの発生を含め、その表現方法が形作られて来たということがあります。
 同時にそれは共同体の目標(災難や悪弊の除去、健康・食料獲得・心持の充足などへの、共同体成員全員に共通する希望・安心の欲求というようなものですが、そういう目標)に向けての、成員の協力態勢の確立・確認ということでもあります。つまりそういう共同性の確立・安泰への希求・要求を秘めて、積極的な人間の表現とは、そもそもその初めは宗教的な営為として出て来ているということが知られています。これは人類学、民俗学等の知見によって、地球上のどの民族、どの地域の共同体にも共通して立証されていることであります。
 一つの共同体の成立ということは、必ずそういう一つの宗教的な表現、或いは儀式・儀礼と呼ばれるものを持っていたわけであります。人間の道徳というものもそこから出て来ます。従って個的・個性的な表現の前に、もっと言うと個的・主体的な表現の前提には、いわば共同性の表現性、共同体の表現というものがあり、共同体の儀礼・儀式というものが、人間的表現性の初発の形式でもあれば、また究極の形でもあるということが出来ると思います。
 だから個人の表現の向かうところは、まずは自己の属する共同体であります。しかし面白いことに、その共同体の表現・宗教的儀式というものは、また同時に必ず、その成員の個性的・個的表現を迎え受け容れて、人間的楽しみの祝会の場を用意します。一種厳粛な儀式には、きっといわゆるお祭りのアトラクションともいうべき人間的無礼講の余興を自由に附帯させ加えることになるのです。その総体を私たちは「お祭り」と呼んでいたと思われますが、例えば折口信夫は、日本のあらゆる芸能は「祭り」「玉(魂)振り」から起こっていて、その根に「鎮魂」という意味を秘めていたということを語っております。(「日本芸能史六講」)宗教的儀礼と人間的自由の楽しみは、表現という場において一つのこととして形象されて来るわけです。

2 芸術性の隘路
 (1) 表現の意味、歴史というものを以上のように見るとしますと、その表現の洗練された究極態を芸術と呼んでいいかと思われますが、すると自由主義・個人主義という現代の価値観を前提とした、いわゆる進歩的な現代的芸術観というものは、何処か何かずれているところはないだろうかと反省させられます。どの領域の芸術も些か自閉的な概念・観念に陥っていないだろうかと疑われるのであります。
 個的・個性的表現が高度に洗練されるのはいいし、それが自己超越的に共同性に向かうというのも、例えば誰でも大衆的に沢山の人に支持されることを望むという意味で、共同性志向ではあるが、現代の共同体というのはどこも宗教性を見事に失っていますから、その表現の初発の歴史に嵌っていた、折口さんのいわゆる「鎮魂」、つまり共同的安らぎに向かうという基本的要素はどこか吹っ飛んでしまっているように見えます。 
 それでも無論芸術は心のものであります。現代では「鎮魂」というような言葉や概念よりも、自己表現というような捉え方の方が流通しやすいでありましょうか。しかし私が敢えて「鎮魂」などという古めかしい言葉を思い出すのは、その自己表現という時に、私たちは一体どんな自己を捉え、自己とはどんなものだと考えられているのか、という問題があるからであります。個性的であるのは結構だけれども、共同性に裏打ちされていないような個性というのは、要するに自閉的個性に過ぎず、単なる独りよがりか企業のコマーシャルリズムに乗るだけの、根のない隙だらけの個性ということにならないかどうか。
 
 (2) 芸術的表現性というものは、いわば美的なものだという意味で、個的にも共同的にもその幸福増進に関わるものだということが出来るでありましょう。その限り、すでに共同的「鎮魂」というような一種宗教的な要素は、現在の言葉で言い換えれば、いかにも福祉的であります。そもそも人間の共同性の成立とは、相互扶助の関係・福祉の成立と言ってよいようなものであり、原初的な宗教表現の発生は、即ち人間的共同体の福祉の発生でもあったと考えられます。
 しかし芸術を単に作者の自己表現と捉えると、その自己というのが、もし共同体から遊離したバラバラの孤立した個人であるなら、そういう芸術が福祉と交わる点は極めて小さくなると思われます。よく出来た芸術作品を鑑賞しようにも金だけがものを言うということになって、現代の弱者や貧乏人は芸術から遠くなる。
 一方、芸術の受容という面も、バラバラの個人が趣味や余興で、ただ個人的・私的に楽しむという風潮があります。個人が楽しんで悪いはずもない、それで好いはずでありますが、しかしその人が芸術を心の何処でどんな風に楽しんでいるのか、ということが問われることになるでしょう。ただ意識の表層のムードやレッテルで仮初めの気分を弄ぶだけなら、あたら芸術を貶めて、これまた自閉的世界を作るだけとなり兼ねないわけであります。
 もしその辺の隘路を、社会的にレプリカの大量生産やイミテーションの物量などで埋めようとしますと、文化としての表現の質はレベルを下げるばかりということが結果してくるように思います。

3 福祉の限界
 (1) 現代の福祉という概念は、人間、或いは個人というものを何処で捉えて、どういう必要を訴えようとしている概念でしょうか。ハードの面で、例えばお金がなくて暮らせない、そういう人を税金で援助しよう。病気で苦しんでいる、そういう人をケアーして助けよう。まずはそういうことかと思います。それらは基本の大事なことですが、しかしその際、金を与えればいい、或いは弱った人の立ち上がるのに肩を貸せばいい、というだけでは、まだ人間関係の福祉ではないだろうと思います。人を物か単なる動物のように扱っていることになりはしないか。人には皆なそれぞれに深い心があります。その人々の心の深さの共有なしに、福祉という概念は決して独り立ちはしないだろうと思われます。
 では、心の共有というのはどうしたら出来るでしょうか。色々考えられることはあるとは思いますが、私は端的に、福祉などという言葉が消えるところ、そんな意識が吹っ飛んでしまうような、人間の信頼関係が醸せるかどうかに掛かっていると言いたいと思います。現代において福祉という言葉は、制度的職業的概念とはなっていても、人の関係における安らぎ、鎮魂や生命的充足、本当の人の心身の救済ということには遠い、殆ど関係のない言葉のように思われます。
 ついでに申しますと、私はボランティアという言葉も嫌いです。誰でもきっと家族や近隣、身近に必ず一人や二人援助や助力を必要としている人があるはずなのに、そういう人に全力を尽くすなんてことは出来ないでいて、無責任に自分が面白くなくなればすぐ引返せるような、遠くに正義面して人助けに出かけるなんてことが流行るのがいいとは必ずしも思われないのです。阪神大震災の時、全国から集まったボランティアが活躍したと言われました。それを聞いてほっとしたという面と、人間関係というものは始めからすべて、本質的にボランティアの関係に違いないと思われるのに、根本的にはそういう関係を大事にしようとはせずに、特殊なケースだけを煽って宣伝される風潮に些かの疑問も感じました。ボランティアなどとおだてられて、行政の穴埋めに為政者に利用されているだけという側面があるようにも思われます。
 
 (2) そんなわけで、芸術と福祉ということを考えようとすると、いわゆる福祉とも芸術とも次元を異にする、人間生存、人間的生命の心の奥蔵・奥処(おくか)を考えざるを得ないと思われます。
 本当の福祉は、おそらく福祉などという言葉が消え果てるところでしか実現しないだろうと申し上げましたが、芸術というものも、おそらく芸術などという呼称がどうでもよくなるような地点で、初めてその本来の表現性が意味を持つだろうと思われます。
 つまり、音楽であれ絵画・彫刻その他であれ、作品の芸術性というのは、それを鑑賞する者の心を癒し、余計な想念を浄め心身を豊かにするもののはずであります。するとその時は、極論すれば作者も消えてなくなるような、作品そのものと向き合う自己生命の手応え、存在の感動に直接するということになるだろうと思います。そういう感動を共有する喜びというものが、お互いもっとなければならない、と思います。そういうことが少しでも見通せたら、いわゆる福祉の現場というものが、もっともっと内容をもって人間の心の交流の場となるだろうということを思うのであります。

 最後に私の恩師・滝沢克己先生が、作家・志賀直哉の言葉を引きつつ記した「朝の言葉」という断章をご紹介して、終りたいと思います。

 「朝の言葉・26」
 「『夢殿の救世観音を見てゐると、その作者といふやうな事は全く浮んで来ない。それは作者といふものからそれが完全に遊離した存在となってゐるからで、これは又格別な事である。文芸の上で若し私にそんな仕事でも出来ることがあったら、私は勿論それに自分の名などを冠せようとは思はないだらう。』
        (志賀直哉、昭和3年改造社版「志賀直哉集」の序)
 こういう奇跡が起こるのも、もとはといえば、人間の存在そのものが大いなる奇跡だからだ。いわば目に見えぬ世界の主に呼び起こされた世界の客が、失礼にもよそ見ばかりしながら、それでも懇切に引きとめられて、主のものを見せていただく。――私たち人間が作るということは、総じてそれ以上のことではありえない。」(1957・4・5)

 ここで奇跡と言われているのは、近代主義的な文学者たる志賀直哉でさえも、そういうことが言えるというのは奇跡だという意味を孕んで、根本的には、本当の芸術的作品というのは、自己表現なんていう次元を超えた奇跡的なものだと言っているのであります。私たちが心というものを抱いて、こうして生きているということそのことが、大いなる奇跡なのである、と。
 
 救世観音、皆さんご承知でしょうがあの法隆寺ですね。しばらく行っていないから今もそうかどうか知りませんが、夢殿の戸の隙間から覗いても安置されている厨子しか見せてもらえない。ご開帳の時期があると思いますが、ご開帳になっても電気など照らさないはずですから暗くて分からないでしょう。写真で見た表情をそこに投影して想像するばかりですが、だから志賀さんは特別に拝観されたのだろうと思う。日本最古の初発の仏像で楠の一刀彫り、明治以前からずっと秘仏とされ人目には触れさせられていない古仏です。ただ、夢殿と言わず五重塔と言わず、奈良の古刹の建造物を見るだけで、僕は志賀さんの言葉の信憑性は感じられると思います。法隆寺の境内を歩くだけで、救世観音の微笑を感じることが出来ると思う。しばしばレオナルド・ダヴィンチのモナリザに比較されたり、僕はルオーのヴェロニカなども似ていて好きだと思いますが、似てはいるがやっぱり違いますね。ヴェロニカは眼がまん丸ですし。しかし違いはそこではない。
 何処が違うか。細かいことはさておいて、僕は有名、無名の違いだと言っていいと思います。モナリザもヴェロニカも作者がのっぴきならず作品に付着している。僕らにとっては外来の文化であるだけでなく、キリスト教信仰なしでそれらを見るわけですから、胸までは来るが腹には落ちない。しかし木彫の仏像の凄いものというのは、単に美的ということを超えて直接腹に来ると思います。そこには民族の歴史も嵌っている。いわゆる芸術家とか評論家が言う、或いは僕らが普通に捉えている芸術鑑賞というレベルの感動ではない。自分自身の来し方、行く末を思わされるような、民族的存在性を感じさせられる。そういう深さにおいて芸術というものが僕らの内臓と響き合いますが、それは作者というものが分からない、作者が消えているということと深い関係があることと思います。つまり人間の誰彼の主張ではない。ただ無心の極みに形作られた、固有の風土の固有の微笑であるというところに、救世観音の静かで清らかな永遠性を見ることが出来ると思われるのです。志賀さんが『格別のこと』と言っているのは、そういうことを言おうとしたのだと思います。
                      (日本福祉芸術学会・於九州大学)