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体の思想

2007年4月28日

体 の 思 想
       ──親鸞と滝沢克己──
                     


「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ」(ルカ、10・41、42)

   Ⅰ.頭 と 体 

  (1)
 椎名麟三さんという作家は、何事にも自問する時には、「ほんとうに、ほんとうに、ほんとうに、そうか?」と、ほんとうを三回重ねて問うんだと言っておられた。いったん確かな事実と見えたことも、本当に、本当にと重ねて自問していくと、「いや、そうでもないかな、」と、ちょっと揺らいできたりする。だから本当に確かなものを、確かなものとして掴みたい。うっかりした錯覚や、ものごとの表層の認識、あるいは片手落ちな理解ということを避けたいとして、言われていたことです。
 この自問の仕方は、しかし気をつけないといけないところもある。本当に、本当にと問うているのは他ならぬ、あまり頼りにならない自分自身ですから、そう問う自分の意識のありように束縛される恐れがあります。意識というものが、澄明で謙虚なものでなければ、かえって災いにさえなる。本当に、本当に?、と分析を重ねたり、あくなき探求を続けるといっても、事実や論理の迷路に入るだけで、必ずしも本当のことが解るとは限らない。
 それでも椎名さんの問い方は、問い方のイロハとしては面白いし、有効です。何かの本とか誰か偉い人の話にいたく感動するとする。本当に、本当にと問うてみると、どこか曖昧や飛躍に気がつくかもしれない。うっかり調子いい話に騙される等という危険が避けられるでしょう。あるいは「とても悲しい」ということがある。どこがどのくらい悲しいのかと自ら問うてみると、いや、こういう部分の、この辺りが悲しいので、何も全面的じゃないということが出てくる。すると悲嘆極まって自殺するなどということは起こさずに済むかもしれない。

  (2)
 ほんとうに、本当に?、という問い方は、しかし実は殆ど無意識裡に、誰もがいつも持っている問い方なんです。いつも体がそういう問い方をしているといってよい。頭ではよく分かっていて、「神は愛なり」とか、「滝沢は凄い」とか、「民主主義が大事」とか思っているとしても、体の方はきっとそこで「ほんとうに、ほんとうに?」と問うてくるもので、そう自分の頭で思っているほど、自分自身のたれ込んでいったりはしないのが普通です。体が頭に抵抗している。真理を表現した言葉は多々あって、色々教えは受けるが、言葉の真理はその限りの話で、決してそのままでは自分自身の最後究極的の真理なんかにはならない。「正義」とか「愛」ということがあるのは分かるが、一義的にそういって済む正義や愛があるとは、体は承知していない。体が納得しない正義も愛も、本物とは言えないだろうと思う。
 真理というものがあるとしたら、体が納得するようなものでないとダメだろうという、こんな私がいま言おうとしているようなことは、酒飲み話の席のようなところならともかく、普通はめったに言われないです。何をバカなといわれるのが落ちで、通らないです。仏教でもキリスト教でも、全く逆に言われている。体つまり肉に属する思いは、もともと不浄のもので、肉を超越して精神の高邁を求めるところに人間の尊厳がある。肉は、真理をどこまでも認めようとしないものだ。罪悪深重、煩悩熾盛、あるいは原罪を担っている。そういうこの身を何とか越えて、悟りを得たい、永遠の生命を得たいとする。実際にそれを焦って西方浄土に行きたしとて、紀伊の浜から自殺行の舟を出した仏者とか、体を痛めつける修業とかが、歴史上も跡をたたない。キリスト教の修道院などもその類かと思われます。
 しかし肉は罪だと言ったって、それをラディカルに越えようとしたら死ぬしかないんであって、生きていて、しかも罪を越えようというのは、まず矛盾です。                   
  (3)
 そういう矛盾を生きているのが人間だ、とは近代にいたるまでの宗教や哲学、あるいは通俗の常識とも通低する、共通公認の認識です。その矛盾の統一、超克ないし消滅点を求めて、宗教の行法や哲学の論法を積み上げることをずっとやってきた。いわゆる思想史とか哲学史というのがそれです。
 いま私は九大で仲間と西田哲学を読んでいるが、西田哲学というのは「絶対矛盾的自己同一」の哲学です。例えば身心、心と体は絶対に矛盾している。体は形があるが心にはないとか、体はモノだが人間は単なるモノではないとか。絶対の矛盾のまんまで、自分自身としては一つとして生きている。同一である。生きるということ、存在しているということは、そういうことだというわけです。絶対矛盾の自己同一。滝沢先生の「インマヌエル」(神ともに在ます)の哲学も同様ですね。神と人は絶対に相渡れない二つのものだ。不可同だ。それが全く異質のままで、互いに分離出来ないように一つのこととしてある。不可分だ。しかも神から人に一方的に命が与えられて来る、そういう根源的な事実が先にあり、その先行の原事実によって人は生かされ神を認識出来るようにもなる。すべて問題は人間のことであるのだが、神から人へという事柄の順序は絶対逆にならない。不可逆。滝沢先生の神と人の関係というのは、そういう矛盾的同一の関係です。
 それらは深い哲学的真理を極めたところから語りだされているのであって、確かに大事な真理なんですね。しかし、矛盾というんだから、人間の理屈として表側から論理一貫して首尾よく説明しようとしたら、そこは矛盾としか言えないという話に過ぎない。親鸞が「南無不可思議光」といった、不可思議というのと同じです。生命とか存在の根源的なあり方、その事実を説明しようとすれば矛盾としか言えないと。親鸞は不可思議だと。もっと昔なら神秘とも受け取って、恐れ多いとして考えようともしなかったことです。が、その後人間は考えて考えて、多くの考えを積み重ねた、その結果不可思議だ、矛盾だというわけです。洋の東西に宗教家や哲学者が輩出して、修業し思惟し経験積んできて、何ということはない、太古の人間と同じ結論だ。やっぱり矛盾に尽きる。考えても考えなくとも同じことのように見える。とりあえず言っておきたいと思うことは、人類史に於いて人間の考えてきたこと、考えていることは、細かく見ると実は凄いことが一杯あるんだけれども、しかし根本的には何の進歩も発見もありはしないんだ、ということです。つまり、不可思議な事実というものを解こうとして、やはり不可思議だ、矛盾だと見る精度はあるわけだけれども、それ以上のことは何もない。どんなに学問や科学が発達したって、この不可思議は超えられないです。それが超えられるとでもいうことが起こるようなら大変です。人間、神様になってしまうんで、人間じゃなくなる。

  (4)
 学問は大事だし、そこにしかないというような確かさやヒントも多いから、楽しみながら大いに学ぶべきだけれども、基本的な生きた人間的生命の展開過程において、何か頼れるなんてものじゃないんです。実際誰も、学問さえあればなどとは思っていないでしょう。現代の学問というものは特に、出世のためか金儲けか、要するに不純な動機を混えねば成立しがたいところがある。たとえ純粋、高潔な学問的精神とかすばらしい理論というものを頭で思い描くとしても、今度は体がついていかない。いくら専門家が「ここに来い、救いはここにある」と招いてくれても、体が納得しなきゃ誰も行けない。しかし学者や宗教家はそれを主張するのが商売だからそう言う。そこのギャップがタテマエとホンネとか、社会や制度の問題として、ジャーナリズムが話題にするような俗な矛盾として続発します。例えば医学が、臓器移植どんどんやれば人が助かるという。だから臓器提供はヒューマニズムだ。そういわれ頭ではそうかもしれないと思う人も、自分の体のこととしては恐れや躊躇が起る。それは単にエゴイズムなんかじゃない、命がかかっているんだから当然です。学者達の問題提起の方が根本的におかしい。まだまだ人間というものが分かり切っていないというか、生死の観法が何ら確立していないのに、一方的、功利的に生命が取り扱えるかのように考えられている。文明とともにますますそういう次元の低い、人間の立場や主張だけが行き交う雑駁で消耗な難問が増えるばかりです。そんな問題に惑わされたら自分の命を損じかねない。現代の思想状況の混乱というのは、要するに存在の不可思議な根底というものを、それとして見ることも受け取ることも出来にくくなったということで、そういう時、下手な理屈を信じたりすると自殺行為となります。
 体が納得しない真理なんて本物じゃないと私がいうのは、何も体が心より上だとか何とか言いたいんじゃなく、体はやっぱり自然を生きてるよというだけなんです。親鸞の不可思議や西田の矛盾というのを、そう言われる前に、言われなくとも体はちゃんと生きている。例えば、頭では幽霊なんかいる筈がないと分かっていても、無気味なものというのはあるのであって、体はぞっとしたりする。これなんかも自然な体の反応でしょう。存在的世界というのは、決して一方的に人間の方から割り切れるものではありません。歴史が悪戦苦闘して見つけ培ってきた思想の真理を、いま私がウラから言おうとしているだけです。表側の論理、説明的弁証というタテマエの次元では、矛盾となるが、裏側のホンネから言うと、体はその矛盾や不可思議を当たり前のことのように生きてしまっている。それが自然というものだ。そういう自然の事実があるから、それを見て矛盾とか不可思議という捉え方も出来たわけです。だからそういう事実を見ていなかったら、つまり頭の中だけで考えたり言葉を扱っていたら、どんなシャレた言葉や思想があったって、単に画に描いた餅だ。何の足しにもなりません。


   Ⅱ.親鸞と滝沢克己

  (1)
 真実、あるいは真正の思想の言葉とはどんなものか、自分の生き方をどこで決めて、何を見るべきか。自分の生きている意味をどう掴むか。そういう切実な自問において、本当の宗教や哲学は研鑽を積みます。多かれ少なかれ誰でもそういう問いを生きており、思想家というのは特に集中的にそういう問いに関わって思索を重ねるわけですが、なかでも歴史上、親鸞や滝沢克己はその最たる人と思います。親鸞は、
 「弥陀の本願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」
                          (「歎異抄」後序)
と言いました。仏様というのは、他の誰のためというより何より、自分自身のためにいて下さっているんだ。体も含めた、あるがままの、出来損ないの生きている私自身を、本当に生かして下さると。親鸞が仏恩をそのように感じたと同じように、滝沢は、どんな問題や思想の言葉も「自分自身のこととして」把握し取り組むのでなければ、単に抽象的、一般的なお話にすぎないだろう。神のことばは常に、一人一人に自分自身のこととして来ているんだと言いました。
 まことに、どんな高邁な哲学があったとしても、それが自分自身のこととして切実な自分の問いに応え、自分自身の血肉に食い入ってくる言葉でないならば、所詮他人事にすぎない。あってもなくてもよいものです。だから本当にものを考える人は、地に足のついた自分自身の痛切な初発の問いを大切に問いつづける。そこに、例えば「歎異抄」が珠玉の聖教として大切にされ、人々の心をうつ秘密があると思います。「歎異抄」にはそういう初心の問いの迫力がある。
 ですから、滝沢克己が親鸞を論じた『「歎異抄」と現代』という本も、「親鸞一人がため」という親鸞の言い表しに注目し、それを柱に、そこから考察が始まっている。そしてすべての問題がまたそこに返ってくるんです。

  (2)
 滝沢『「歎異抄」と現代』は、冒頭第一章が〈「親鸞一人がため」の「弥陀の本願」〉となっており、第二章〈「本願選択」の二重性〉、第一節〈「親鸞一人がため」とはどういうことか〉という風に論が進められていきます。
 「本願選択」の二重性とは、まず、①本願力そのもの。人の信心や理解に関係なく絶対に先行して存在する仏の本願力の実在とその働き、つまり、仏様のお慈悲は人が認めるか否かに関わらず実在するんだ。だから、その実在を信じない、知らない人にもお慈悲は及んでいて、その恵みにおいて万人が人として生きているということができる。そして、②人による本願力の認識ないしその表現。実在する本願のお慈悲を蒙って、「この私(人間的主体)自身の取る行動、みずから成す形としての信心」、つまり本願力を信じる人間の信心が起る。この①、②二つのことが、「本願選択」という語で同時に言われているという、それが「二重性」といわれる所以です。そこから、「親鸞一人がため」といったって、それは単に親鸞の主観、個人的な思いなんてものじゃない、正に②の形の表現であると滝沢先生は言われます。
 ①の第一義的な本願力においてはじめて親鸞という一個の人間が成立し、そのことの自覚が第二義的に、②の信心として起る。だからその自覚は、①の仏の本願に対する、②人間の応答、映しとして、常にその正確度、深さが問われてくるものでもあるが、それを映している親鸞自身は何者でもない。罪悪深重煩悩熾盛の身だと自ら言っている。だから、「親鸞一人がため」というのは、その「主体のいわばゼロ点を指して」(25p)の本願の表現点としてのみ、実際に自分が自分として存在している、そういうことを喜びをもって表白したものだ、と滝沢は言う。いわゆる滝沢のキリスト論における第一義のインマヌエル、第二義のインマヌエルと同じ形ですね。
  だから、「決定的な焦点、重心は、徹頭徹尾『弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば……』とかれ(親鸞)みずからいったその無量寿、無量光仏の『本願選択』・『摂取不捨の利益』そのものにあります。」(28p)ということになる。

  (3)
 「信心には、それがそれ自身はけっして実体・原像ではないただの映しにすぎないという感覚が、かならず含まれていなくてはなりません。」(37p)と言われる。そういう感覚の含まれた、人間のものの認識・理解の仕方のことを信心ないし信仰と呼ぶんだと私も理解しています。普通は、科学的認識とか哲学的理解というのは冷静な理性の働きや客観的根拠がある、しかし信仰というのは多かれ少なかれ主観的なものだと考えられている。本当はそんなことないです。信仰というのは、厳然たる存在ないし人間認識の冷静な方法なんです。理解とか認識と呼ばない、そういったら大事なものを取り逃がしてしまう、そういうところに出てくる根本的な人間の理解の仕方、認識の仕方なんです。そこがミソです。実際それは、存在ないし生命というものの、根本的な在り方に関わることです。だから、滝沢のこういう信仰理解は実に鋭いものがあります。それは、信の根拠としての普遍的な、仏の慈悲ないし神の愛が、はじめに実在すること、そこから初めて人の成立もあり、諸文化の営みが立ち上がって来ることを、きっちり押さえているからです。
 親鸞も確かに、滝沢のいう同じ根源的事実を押さえていた。だから、自分の信心を先立ててものを見たり、人を審くなんてことは金輪際ありません。そこは滝沢の見ている通りです。しかし、ここから少々微妙な話になるのですが、その根源の事実理解は殆ど同じと言えるとしても、その押さえ方の流儀、焦点の切り結び方は、まるで違うというような差異があります。どういう性格の違いかということを先に言ってしまいますと、滝沢は人間の信心・信仰というものを含めて、存在論ということを根底において、正面、表側から正攻法で、いわばただ理論的にとりあげる学問の方法を貫く。学者なんだから当然といえば当然です。しかし親鸞は、同じことを裏側からも、つまり個人レベルの、人間的情感をも包み込んだ生きた人間の現場の方法を提示していく。同じことの裏表なら同じことかというと、これは大きな違いになるんですね。先に触れた頭の理解と体得の違いになる。「滝沢」というのはそんなヤワな思想じゃないんですが、それでも方法的制約は最後的には決定的になるんです。
 理論や頭の理解だけでは、次の瞬間、すべてがひっくり返ってしまう、逆立するということがある。どんなに行き届いたしっかりした理論でも、です。かえって凄い理論であればあるほど恐いといえる。例えば、滝沢なら、その二重のインマヌエルという理論で大概の問題全部説明がつくので、それを鵜呑みにしていると、そこをはみ出していたり、違った領域の問題が少々あったって、そんなこと括弧にいれて、インマヌエルで渡ってしまうというようなことが起る。その理論は根底を穿っているんだから、根底においてはみ出す問題なんかありえない、と思ってしまう。すると実在の人間の生命的展開を虚心に見るというより、せっかくの理論をイデオロギーに貶しめて、その理論に合わないものは無視したり審いたり、ということが起こりかねない。いずれにしても危ないです。そういうことの恐さを知らねばならないということを私は言いたいわけですが、滝沢の理論内部にもその恐さのトメはあってないのです。
 あるというのは、滝沢においては人間の想念は、それがどれだけすばらしいものでも、単に相対的なもので、いわばどこまでも真相の映しにすぎない。実体でも何でもないという観点があるから、人間の理屈を先だててものを見る非を、いつも徹底的に語りだしてくる。絶対偶像は作らないという方法意識が、どんな哲学者、思想家よりも強い。これが滝沢の魅力です。しかしそれでも、トメがないと思うのは、インマヌエル、存在の構造の把握、理解、(感覚といってもいいですが)その自覚を問うということに終始してしまうということが残る。自覚のあり方、認識の精度、表現の確度が、人間の幸不幸を決するということになる。より根底的な認識を求め、より完全な人間というものが目指される。言い換えれば「キリストに倣え」ということですが、原理的に煩悩を克服することはできるし、だから出来ないほうがおかしいという存在理解の仕方が貫かれてきます。
 そんなこと私がいうと、とんでもない、少なくともキリスト教的な人間理解はそれが神の被造物であり原罪を負うものだから、人は決して神になれない。そればかりか罪の克服が人の手で果たせるなんてことは考えられない。そう言われるかもしれない。それはそうなんですけれども、しかしそこで、イエス・キリストにおいて人の罪が克服され、私達はその信仰において義とされる、(例えばパウロ)ということが帰結する。すると妙な、あるいは当然かもしれないが、変な理屈が降りてくる。あなたも罪人、私も罪人、だから対等だ。それでオレはイエスの信仰において辛うじてでも罪に打ち勝てているが、お前はまだ罪にさ迷っている、というような人間観が生じる。古代ユダヤ教以来、選民意識なんてものがありました。そこで罪の自覚、ないし救い主キリストの認識の精度、つまり信仰の意識を問うということが、神学というものを形成することになるのです。即ち、神の声を聞き分け、真理に目覚めねばならない。信仰の対象が唯一の真の神というんだから、これは強烈な要請となる。しかしそこは、親鸞は全く逆だろうと思います。

  (4)

 歎異抄第二条の一節。 「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられ参らすべしと、よき人の仰せをかぶりて、信ずるほかに、別の子細なきなり。念仏は、まことに、浄土に生るるたねにてや侍るらん、また、地獄におつべき業にてや侍るらん、総じてもつて存知せざるなり。たとひ、法然聖人にすかされ参らせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。」 

一切、理屈なんて知らぬ。念仏だけしようと思っているが、それが救いの種か地獄に落ちる種かも知らぬ。たとえ騙されているのだとしても、それでいいんだと言っているわけです。「善悪の二つ、総じてもつて存知せざるなり」とも親鸞は言っているが、それくらいのことは当然いと易く言うでしょう。ここはそれより徹底している。人間の信仰というもの、あるいは人間の本質的な生き方といってもいいんだけれども、それがどんなものかということが、ここでよく分かるのではないでしょうか。人はみんな、切実な心底においては、ほんとうはそんな風に生きているんですね。正しいから、価値があるから、なんて理由によって生きているのではない。
 滝沢もここをそっくり引用して、論評加えられています。無論、親鸞は盲目的な信心を主張しているわけじゃない。だから、そういう親鸞の言い表しが、どこから出てくるのかということを論じて、万人の根底に来ている「弥陀の本願」を「聞き分け」、それを第一義と見ているから、そこから親鸞は先師法然をも大事に見ることが出来るんだと言われている。それはそうなんですね。法然さんがこうだと言うことが正しく、親鸞さんにもそうだと思えるから、つまり同じ所に立っているから、「たといすかされ参らせても」ということができる。しかし滝沢の言い方だと、「親鸞にとって……第一義のことはただただかれ自身の拒みを拒んでかれ自身に懸けられていた弥陀の本願」だけである。法然との関係などは第二義のことにすぎない。それで、「この第一義の事を第一義の事、唯一絶対の大事とする者のみが、第二義の事の何であるかをほんとうに理解します。」(39p)ということになる。人間的な思いや信仰なんてものは「第二義以下の事」にすぎない。この世の実際の人間、煩悩熾盛の脱せられない人間同志のことは、どれだけすばらしい愛の関係であろうと子弟の関係であろうと、相対的、二義的のことである。
 しかし、ここで第一義と第二義とに分けることによって、それは一貫した滝沢の根本視座であるが、現象の深部の説明としての理路はつくが、親鸞の終始大事にしていた「信心決定」の息吹は殺がれてしまうという面があります。しかしそれが殺がれると、教理は残るが人間はいなくなるという感じになる。滝沢によれば、無論「信心決定」というのも、人のものならぬ「弥陀の本願」の根源的決定を映して、その人に起ることである。理屈に映されてくる事柄の真相はその通りです。しかしそこまでのことなら、どんな信仰者でもそうなわけで、格別「信心決定」していない者にも、頭では分かるんです。だが、頭では分かるだろうが、それだけではやってゆけないよ、と親鸞は言い続けているように見えます。だからここでは、いわゆる「信心」に止まらずあえて「信心決定」と言われることの、積極的な意味を問わねばならないだろうと思います。そして確かに、心底から信心決定しない限り、そういう理屈がいくら分かっても、人に人としての救いが来るとは考えにくい。本当に各人の個としての孤絶した生死、現実の痛烈な四苦八苦の煩悩は越えられるだろうか。「親鸞一人がため」というのも、その「信心決定」の親鸞自身における決定性、個としての実際の身の救いのことを言っていたであろうと思う。

  (5)
 それで、滝沢先生ではありませんが、「信心決定」とはどういうことかと改めて問うてみます。滝沢は、それは第一義の弥陀本願の「根源的事実的な決定の一反映として」、「かれ自身にもまったく思いがけなく、かれ自身に生起したことにすぎません。」(19p)といわれる。もう少しいうと、弥陀の本願を考えて考えて徹底的に正確に聞き分け、そこで「却下に実在する第一の事実への開眼」(例えば101p)を通して、自分自身のこととして、第一義の真実を「自覚」(例えば131、165、190p)しきることだ、と言われるでしょう。しかし親鸞は「歎異抄」だけで見ていっても、そんな風には決して言わない、むしろ全然逆ですね。素直に読めば誰にもすぐ分かることですが、まるっきり正反対のことばかり言い続けていると思う。「よき人の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。」とか、「たとい法然聖人にすかされ参らせても」とか、第二条の文言がすでにそうですけれども、第九条ではこうなる。
 「よくよく案じみれば、天に踊り、地に躍るほどに喜ぶべきことを喜ばぬにて、いよいよ、往生は一定とおもい給ふなり。」
 それで、弥陀本願の有り難さが分かったら嬉しいだろうし、大切な第一義の根源的事実がどんなものか、そこに開眼できたら「踊躍・歓喜」するだろうけれども、それが分かりたいと思って皆な勉強したり修業したりするんだけれども、死ぬまで決して分かりっこないし、だから嬉しくもない。そのくらい自分達の「煩悩の興盛に候ふ」と。でもそんな人を仏は「ことに憐れみ給ふ」のであって、
 「これにつけてこそ、いよいよ大悲、大願はたのもしく、往生は決定と存じ候へ。踊躍・歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へも参りたく候はんには、煩悩のなきやらんと、あやしく候ひなまし。」と云々。(以上第九条)
 滝沢はここは、どのくらい堅い「信心決定」といったって、人の信心というのは本願の「根源的な決定=関係の堅固さ」の、「おぼろげな影にすぎません。」だから、親鸞はこの第九条で「罪悪深重・煩悩熾盛の自己自身を血と涙の懺悔をもって告白」しているのだ、という風に読まれている。(18、19p)
 それにしては、九条の文言は全体のびやかであるし、その末尾では、ちゃんとした認識や信心がもてたら、「煩悩のなきやらんと、あやしく候ひなまし。」なんて、少々しつっこい言い方が出ているわけで、滝沢の読みでその機微が解けるとはどうも思えない。ここを逆説的な親鸞のレトリックと読むのも、少しも穿った読み方ではないでしょう。つまり、親鸞は本当にそう思い、そう言っている。煩悩があったって障りにはならないということを見ている。滝沢はいつも一般的、通俗的な学問的方法というものの不毛なドグマを批判し、超克しようとされたが、「学問的知解」というものへの評価、心酔という点では、いわゆる専門バカと呼ばれる一般の学者に負けない、思い入れの信仰があったかと思われます。だからそのラディカルな立論にも拘らず、至るところに「自覚」とか「開眼」という語が出てきます。「信心」というのも畢竟、「それの対象=隠れたる真実主体、ないしこれと人との根源的な関係点に秘められているロゴスの、ヨリ一段と明晰判明な映し(真に学問的な知解)となるべく、おのずから動き行かざるをえない。」(135p)と言われるのです。
 しかし親鸞は、そういう学問的方法というもの自体を、自力作善のこととして相対化しているところがあります。第十二条では、「学問をむねとするは、聖道門なり。難行となづく、」といわれたりしているが、それのみならず、全体の視点、表現方法が反対です。学問的知解がどうしていけないのか。しかしそれは、どう言っても人間的主体の側からの探求である。頭を通路とした作善となることが避けられない。ことは、そういう諸営為の人間における可能根拠に関わるというか、その発起点の生命的な在り方である。そこでの実際の救いの在処に至る通路は、学問的通路とは方向が違うと言っているように思います。頭ではない、体全体に通ってくる畢竟の人の、つまりそれこそ徹底的に人の人としての決定的な安心の在処、その内的・外的な形からすべてを語りだしてくる。滝沢ならそれも、同じ事の表現のアプローチの違いにすぎないと言われるでしょうが、親鸞はそれを同じ事としてはおけないというところからすべてを見ていると思います。「一文不通のともがら」「学せざるともがら」(11、12条)が、今すぐ救われねばならない。本当の知解は大事としても間に合わないよと言っているみたいです。そんなところでの理屈は「法の魔障なり」(12条)と言っている。学問を通したら何かが見えるというのでないばかりか、かえって逆に学問の位置や意味もがそこで一挙に見えてしまうような、そういう「信心決定」が生身においてすぐ可能なんだと言っていると思う。学問や理念、理屈の子細を詰めようとしたって無駄だ、何が本当か知りたければむしろ自分の体の奥に聞け、と言っているように私には聞こえる。体は「いづれの行もおよびがたき身なれば、とても、地獄は、一定、すみかぞかし。」(第二条)である。どこまでもそうである。じゃ、どうする、といわれて、どこにも行くところはないが、「たとひ、法然聖人にすかされ参らせても」かまわない、という道だけは残っている。ほかに道はないという、そういう具体的な「信心決定」を語っていると思います。

  (6)
 滝沢の方法は終始正面から、オモテから、つまりどこまでも人間の正確な覚醒を促すという学的方法です。だから、その自覚において煩悩(罪)を克服しようという呼びかけでもある。その限り、本当に切実な人生の難問に対しては、理念の面でいわば外堀を埋めるというか、入門的な性格が強い。歎異抄の言い方ならやはり「学問をむねとする」聖道ないし法華一乗の最澄に近いが、空海の顰みにならっていえば、顕教的です。
 それは例えばこう言ってもいいでしょうか。男と女が出会うとき、互いに顔がどうだ、出自がどうだ、能力やいかに等と問う知解に逡巡している間は、まだとても一緒になれないでしょう。出会いの入門として色々知ることは単に無駄ではないかもしれない。しかし、文句なしに好きということ、アバタも笑窪になって惚れるということが体に起らなければ、愛するということにはならない。しかし滝沢は、いかに相手が信ずべく愛すべき価値があるかという、オモテ側からの接近を促す。それに対し、親鸞は、惚れるということが心底起らなければ、一歩も近づけないだろうということだけを言うんです。だって愛することが問題で、愛だけが焦点となる事柄なんだから。信心というのはそういうことだと。だからそういう意味では、親鸞は、「即身成仏」は認めないが、「即得往生」とか「如来等同」ということを、歎異抄以外の書きものでは言うわけで、浄土真宗の人はあまり認めたがらないかもしれないが、むしろ空海に近く、密教的なところがあると思う。空海の生れ寺である四国善通寺にも高野山にも、親鸞の御廟が建っている。無縁ではないでしょう。それはともかく、親鸞は実際の人間の生命的事実としての癒しの在処を見ているのであって、いわば体の思想として見るのでなければ、歎異抄一つが読み切れないところが残ります。
 歎異抄の冒頭、第一条の第一節目がどう読めるでしょうか。こうです。
 「弥陀の誓願不思議にたすけられ参らせて、往生をば遂ぐるなりと信じて念仏申さんと思ひたつこころのおこる時、すなはち、摂取不捨の利益にあづけしめ給ふなり。」
 滝沢も第一条は全部引用して論じられてはいるが、この部分はすっぽり外されています。その後に続く「老少善悪のひとを選ばれず」「他の善も要にあらず」というところに焦点が合わされていく。(26p)しかし私は、かえってこの冒頭の一節に、親鸞の「信心決定」といわれるものの核心が凝縮されて言われてしまっていると思う。歎異抄全編の内容がこの一節に尽きるとさえ言いたい。「念仏申さんと思ひたつこころのおこる時、すなはち、」というのは、本当に心の底の底、体の芯からそう思ったら、もうその時それだけで、決定的に救われてしまう、救われてしまったよ、ということでしょう。「思ひたつて」、それから念仏したらやがて救われる、なんて話でないのはもとより、間髪をいれずに救われるというのでさえない。まだ念仏となえるにも至らぬ先に、念仏の方向に気持ちが向いたら、その向き方が本当だったら、もうそれが全部だと言っているんです。それだけで老少善悪も煩悩も、他の条件すべてチャラになる。そんな有り難いことはないから、当然報恩として念仏は口からでてくるでしょう。それがいわゆる称名念仏です。すべては気張らなくて出てくるわけです。自然法爾でもあれば、如来等同でもある。即得往生、摂取不捨に異論の起りようもない。どんな煩悩も障りようがないじゃないかと。
 そんなことあるだろうかと疑う人があるでしょうか。そういう疑いは意識の表層に出てくるものです。そんな表層で勝負していたら、どんな理論極めてもどんな体験積んでも、本当の自分というものに一生出会わずに終らねばならないかもしれない。一見ただただ煩悩熾盛の浮ついた思いや態度しかとれないと思える人も、ちょっと目をつぶって、じっと自分の心の底を覗いてみたらどうだろう。表層の意識とは別の次元で、自分の内に込み上げてくるものがないだろうか。誰に言われなくとも、例えば悪しき予感に対しては身の毛もよだつというようなことがある。同様に、前向きな自分自身においては心の底の底で、本当の自分を求め、本当の幸せに生きたいというような、何か可憐で一途なもの、そんな自分自身の願が体に嵌っていることに気づかないでしょうか。体の芯に嵌っているその深い思いを掬いさえすれば、それだけで自分の歩くべき道というのは決ってしまう。一切がそこから始まり、すべてが見え始める。そういうことがあると思います。自分自身の立ち方、日常の態度のとり方というのも、実はそういう根底の思いとの意識的、無意識的な交信において決せられていないだろうか。感覚と言ってもいいが、五感を越えた深みに、実はいつも人知れず秘かに求めている本当の自分の、本当の真直ぐな願い、思いというものがある。体の芯に嵌っているそういう自分自身の本当の深い願いというものがあるから、どんなに厳しく苦しい状況においても人は希望をもって生きて行ける。そんな深い思いに触れることによって、歓喜するということも起こる。別に私は人間性善説を唱えているわけではありません。性善、性悪というのは、人間の深い思いの取り扱われ方の話に過ぎない。根底の思いは善悪以前、いいも悪いもない。生まれ出た人間は生きるようになっている。
 救いというのは、他ならぬ自分自身の体の芯に来ている。自分の一番深いところに与えられている。他力というのは本当のことが与えられているということでしょう。他力とか真の神とかいわれると、そういう力や真理が自分の体の外にあって、それを見出だすとか掴むことだと考えられがちです。しかし、かりに外にあっても、それを感受し見出だす身体の器官と、その真理との出会いを求めている本当の自分自身というものの実在がなければ始まらない。そういう自分自身がある限り、人はいくら煩悩の固まりのように見えても、単に空しい存在なんてことにはならない。だから、自分としては、本当に生きようと本当にそう思ったら、もうそれだけで本当の自分になるんだ。「歎異抄」の冒頭をそう読んでも、別に不都合はないと思います。そういう地点で、椎名麟三さんの「ほんとうに、ほんとうに、ほんとうに」という自問を生かすこともできる。本当に体の芯に込み上げてくるものを掬う、受ける、そういう本当の自分自身の発見において、滝沢のインマヌエルの学問の積極面も生かし得ると思います。
 滝沢先生も「体の芯」ということはいつも言っておられた。先生は「体の芯が変らねばいかん」と言われています。そうすると、変るべき芯というんだから、もともとはよくない芯であろうか。しかし親鸞は、はじめから善し悪しは知らぬと言っている。つまり、そこに仏の慈悲が来ているという、その一点で信心の在処としての自己自身(の芯)というものを捉えています。どれだけ煩悩にまみれているといっても、誰にも本当の自分の願というものはある。しかし本当に生きたい、自分らしくありたいという願があるということは、即ち仏の慈悲がその人に来ているということだ。それが人間ということです。あれこれの理屈や煩悩にかかずりあっていたって、一向差し支えない。そういうものにいくらつき合っているとしても、本当には自分自身というものを、そんなものに預けきったりは誰もしていないし、出来ないはずだ。誰だってそのくらいには醒めている。だから、うっかりそんな表層の楽しみや喜び、大したことのない悩みや苦しみに心奪われるとか、自分をもっていかれないように気だけはつけよう。それでも自分の本当の、心の底の底に嵌っている願を受け取り、掬いだそうとすれば、必ず見え隠れの中に自然に込み上げてくる、本当の自分の思いというものに出会えるだろう。お念仏とは、そういう本当の自分への励ましなんだ。親鸞さんはそう言っているように聞こえます。

  (7)
 今日はクリスマスなので一箇所聖書を読んでみます。
 「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ」(ルカ、10・41、42)
 一つだけの、最も大事なもの、それは神と呼ぼうと愛と言おうと、生命の事柄としては外堀の話にすぎない。本当の自分が、本当に生き生き生き初める、そういう自分を自分の内に見つけるということ以上に、自分にとって切実で大事なことが外にあるだろうか。イエスさんもきっとそう言っているに違いないと思います。しかし聖書はそういう言い方をしない。マリアは神の言葉を一生懸命聞こうとした。その下働きを私におしつけてと、マルタが嫉妬を妬くのは煩悩だとイエスがマルタに諭すように書かれている。この時、マリアが選んだ「良い方」、つまり神の言葉というのは正にイエス自身の言葉です。それならマルタにそう諭すイエスの言葉も同じ権威においてある神の言葉です。同じ言葉がマルタにも臨んでいるではないか。それなのに「マリアはその良い方を選んだのだ。」というのは、マルタに対する親切ではある。なぜなら言葉としての「神のことば」を、それとして聞くというのも、大切な人のあり方だからです。確かにマリアはいい事を選んだんだ。私達もこうして本を読んだり語りあったりしているわけです。そんなことより、生産労働に従事する方が有意義だとはすぐに言えることではない。だから、そういう主張はいけないよとイエスはマルタに諭した。しかしそれゆえに、またイエスがマルタに対し、マリアがともかくも「良い方」を選んだのだと言うということは、マルタの人間的配慮を二義的なものと位置づけて、神の言葉というものを突出させて固定化することになりかねない。非常に危ない言葉です。滝沢先生なら正に、第一義の神のことばの先行ということを、ここでイエスが明言していると言われるでしょうか。けれども、そこでは「神のことば」を実体化ないし概念化して、神の言葉というものを頭の上に据え頂くような、抽象化の傾向が払拭しにくい。
 キリスト教を世界に広げるためには教義の抽象化を図らねば果せません。そういう抽象化において、神の言葉は錦の御旗になったり、黄門の印篭になったりして世界のどの宗教よりも普遍化し世界宗教となった。ここにキリスト教特有の幸いと災いが出ていると思います。
 親鸞のスタンスはもっと慎ましいものです。自分の教義を世界に広げようなんて考えていない。切実な自己というものを本当に求めるなら、そんな余裕もなければ必要がない。そんな必要はすべて自己意識の表層の煩悩から来る、自己把握の不徹底に由来すると言っているように思います
 今日は、もっと自分というものを大事にしようではないか、というお話がしたかったのです。
                     (96・12・22.読書会クリスマス)