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幼児の環境

2007年4月28日

●「幼児の環境」


 一歳になる孫が毎日のようにやって来る。寂しがりやで甘えん坊の母親が子育ての手抜きを兼ねて、近くの実家に連れて来るだけだと言えばそうに違いない。しかしその親子の寂しがりは最も自然で健康な感覚と思える。

 孫を見ていると、僕ら爺婆だけでなくそこには仕事場の人たちも出入りしているような、大勢の「家族」に取り巻かれた時、いかにも生き生きする様子が分かる。つくずく母親と赤ん坊の一対一のような核家族の暮らし、現代に一般的な家庭の形の不自然さ、異常さということを思う。国民総サラリーマン時代、挙句の果てには単身赴任なんてことまであって、家庭は現代社会の制度の中でまともな子供の養育も出来ないような構造になってしまっているように思う。

 幼ない孫は母親と二人の時、或いは爺ないし婆と二人の時、いずれも大体同じ顔をしていて、どこか気だるい甘えを見せる。しかし母親と祖母とか、爺とかが居合わせたり、他の者もいて数人の賑やかな場ともなれば、急に動きも活発になるし笑顔が殊のほか好くなる。天真爛漫さが溢れる。離乳食も僕であれ婆であれ母親であれ、一対一で与える時は余り進まないが、皆なの食事時に賑やかに一緒に食べさせると、はしゃぎながら軽く二倍は食べるような感じである。

 人の子は人の輪の中で育つのだと思う。人の中で育てねばならぬ。そういうことが無視されて各家庭を孤立化させた上で、国の経済成長もあったものかと思う。幼児期の家庭のあり方の問題の深刻さは、それがすぐ因果関係の結果が眼に見え難いので一層深刻である。現代の子供達の状況、その荒ぶれたり閉塞したりの雰囲気だけでなく、そこで育った子供達自身の成人後のエゴイスチックなチビた価値観の基には、学校や社会の思潮の影響も無論だが、幼児期の核家族の構造やその環境の問題も動かし難く嵌っているのではないだろうか。

 たとえ母親が深く愛して抱き締めて育てても、それだけでは子供はきっと本当には育たないのだ。半端な感覚を持たされて、心優しければやがて引篭もりの自閉症となり、気が強ければ人を人とも思わぬ歪んだ主体主義者となって行くかも知れない。どこか現代人のバランス感覚はもう一つだが、人間関係が殺伐となり、ただ人間不信のみが広がる社会が出来上がる道理である。

 娘や孫にも過剰に甘えさせてはならないとは思うが、せめて爺婆や知人、友人を巻き込んで孫を健やかに育ててやりたいと思う。酷薄な時代にも耐えて歪むことのないような、伸びやかな感性を養わせたいものと思う。だが日々の子供達の環境は実に厳しいものがあると思わされて、爺としての僕は過剰に孫に甘くなっているかも知れない。