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チンチンの哲学 ――あるいは納得の不納得・不納得の納得

2008年8月30日

チンチンの哲学
    ――あるいは納得の不納得・不納得の納得
 

 孫ちんの真弓は二歳、日毎生き生きとして面白くなっている。
 毎日のように僕・爺様がお風呂に入れていて湯船で遊ぶ。すると爺様のチンチンを見つけた真弓が、僕から「おじいちゃんのチンチン」と教わったことによって、時々チンチンなどと口走る。母親の悦子が、嫌よ、お爺ちゃんが変なことを教えるから真弓が下ネタを覚えて、と抗議する。保育園や人の前でそんなこと言ったら恥ずかしいじゃないの、と顔を顰める。
 なるほど。でもそういう心配はないのではないかと思う。ここ数ヶ月の経緯を辿ると、真弓の認識というものがどういう風な構造・性格を持っているかということが分かる気がする。その方が面白い。


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 二歳になる直前、二ヶ月ほど前だったと思う。シャボンで遊ばせながら体を洗ってやったりしている時、ふと僕のチンチンを見つけて、じわっと指を当てて来た。そして如何にも不思議そうに、あ、あ、と言いながら僕を見上げて目を合わせる。それで、「おじいちゃんのチンチン」と言ってやったのだ。鸚鵡返しに「チンチン」と自分で一回反唱してその場はそれっきりだった。まずはその日一回きりである。翌日以降も毎日お風呂には入るが格別気にする風もなかった。
 それから半月も経っただろうか、暫くして、またふと気づいたように今度は自分から「おジイちゃん、チンチン」と言いつつ触って来た。うん、そう、お爺ちゃんチンチン、と答えた。二回目である。その後はまたそれっきりで、もう納得したとでも言わんばかりで特に関心を寄せる風もなく、毎日風呂場用の絵本や金魚の玩具や竹製の笛やシャボンで遊んだ。するとまた暫くして、それから十日以上たった頃と思う、僕に体を洗わせながら下を向いて「おジイちゃん、チンチン」と言った。そして自分の股座に手をやって、「まゆみ、ない」と言う。うん、真弓ないね、と応えた。そして更にその数日後である。また「おジイちゃん、チンチン」と来た。そして「まゆみ、ない」、うん、まゆみ、ないねと応えると、続けて「チャアちゃん(母親)も、ない。」「おばあちゃんも、ない。」と言う。うん、おばあちゃんも、ないか、と応える。その日はそこまでだった。が、そのまた数日後、またまた同じことを繰り返した。「まゆみ、ない。チャアちゃんも、ない。おばあちゃんも、ない。」うん、ないか。すると今度は同じトーンで続けて「せんせも、ない。」と言って僕の顔を見る。ふーん、そうか、と僕は感心して応じた。先生と風呂に入るような経験はしていない。ここでもうこの子にはパターン認識が起こり、想像力や抽象力が芽生え始めたのではないかと思われた。
 昨日までそういう経過を辿っていた。幼児のものの認識過程とでもいうべき時間過程を興味深いものと感じる。


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 珍奇なものを見つけてその名前を知り「チンチン」と発声するのは真弓の一応の納得と思う。しかし一応納得はしても得体は知れず依然不思議さの感じは内的に持続しているのだ。特に拘りは持たなくとも機会があれば想起され、それがどんなものかという自分の得心に向かっての無意識裏のアンテナが張られている感じである。表層ではチンチンと表現して、とりあえず納得済みという形を見せてはいても、意識下では不思議さに打たれていること、決して忘れてはいない。見るもの触るもの何でも珍しい幼児にとって、次の瞬間もう表向きは忘れて次々目先の興味を惹くことで闊達に遊ぶけれども、その間にも奇態な不思議さを感じたことは、その了解の糸口を何処かに探しでもするかのように、少しずつ真弓の内部で醗酵しつつあるのだと思う。


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 幼児だけでなく子供でも大人でも、実は何事であれ事柄の認識とはそういう風に起こっているのではないだろうか。そこでは納得と不納得とが一つである。つまり意識上は納得であるが、無意識の底では不思議と捉えられていて何も納得は出来ていない。それはやがて思想的・哲学的な難問、たとえば表現と実質、建前と本音、意識と実在というような問題に繋がって行くはずである。主体内部における認識のあり方、人間の認識の存在的二重構造ということを考えさせられる。
 一般に人間における物事の納得とは、とりあえずは現象の根底に納得不能のような不思議や曖昧が伏在しているから、それを当座とりあえずわが身において収めるために自らに採る態度のことではないだろうか。納得したからといって当該の事柄が好く解る、よく理解出来ているとは必ずしも言えないことが多い。
 心からの納得、心底からの納得即ち即事的な深い物事の理解ということもあるであろう。それはなければならない。しかしそれは必ず存在の本質的神秘の在り処を感受した次元で、感動・感銘を伴って起こることであろうと思う。感動や感銘という情緒や主観性を排した上での知性とか科学的認識とか客観性というものが大事であるかのように普通は思われているであろうが、実はそんなものはないのである。知性とか理性・悟性といわれる部位での客観的・普遍的な冷静なものの理解や理論的認識等と言われるものは、人間存在の社会面とでも呼ぶべき次元に関わってそういう公的共同性の場において一定の有効性を競っているとしても、その限りでの特殊な部分的・形式的な表現に過ぎない。命への感動・感銘が薄らいでいるような理論や学問が生きた人間の役に立つわけもないであろう。親鸞が自然法爾、畢竟「南無不可思議光」と言った所以である。知性は人間にとって限りなく大事なこととしても、それを研ぐだけでは人生が解けないばかりか却って人生を狂わせる煩悩そのものとなる。科学的とか客観的とか普遍的とか意識的・論理的理解・納得などという類の、現代流に普通考えられている物事の理解の仕方なんて何の納得であるわけもない。ただの自己幻想の産物に過ぎまいと思う。精々ロボットが発達してサイボーグが生まれるだけである。そこでは僕ら人間は退座させられるのである。
 表現が全てだと見做すような認識の半端さは勿論、実在の究極的本質を明晰に捉えるとする志向ですら、人間のこととしては半端な存在認識だと言えると思う。表現によって現象を捉えるとしても、捉えた現象そのものはその根においてどこまでも不思議さを越えることは出来ないだろうからである。それ故に物事・万物の認識ということは、心を開きどこまでも謙虚に構えなければ、存在の実相というものは捉えようもないということが分かる。古来あらゆる領域で謙遜という態度が人間の美徳とされて来た所以である。


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 チンチンという表現とその奥の不思議さに素朴・白紙で対している幼児の感性は、生のまま唐突に「チンチン」と発声することがあるとしても、それはむしろ存在そのものを捉えている事例であって、その限り妄りに人前で喋々と出来るようなふざけた知識ではない。たとえ陽気に面白がって「チンチン・チンチン」と言うことがあるとしても、罪のない話だという以上に恐らくそういう振る舞いをする場は、そうしても構わないと見た時に、覚えたての新鮮な言葉をともかくも口にしてみるのであろう。そこで大人の反応を見ようとしているのかも知れない。意識下に感受している存在的神秘の実相や在り処を、無意識裏に確かめたり探って触れたりしたがっている姿ではないのかと思う。だからその時、大人がつまらぬ自己のイメージや固定した解釈などを宛がって、幼児生来の感覚を歪めてやらないように注意しなければならない。
 言葉を覚えつつある幼児の根には必ず不思議を抱いて不思議に打たれている存在がある。そこは幼児の人間性の煌めきだと思う。
 そういう伸びやかさを失わせたくないと思う。そういう直感の煌めきを大人はどこで失うのであろう。歪んだ時代の歪んだ知性主義の隘路は深い。人の子が小理屈を覚えつつ成長せざるを得ないことの哀しさを思うが、初発の命に無条件で来ている祝福をどうしてもっと大事にしないのであろう。天来の祝福をいかにも虚仮にして、改めて自己主張でもしなければやって行けないような現代流の世界のあり方、その知性や暮らしの営みの異常な構造的跛行に眼を覆う思いである。
 自分の受けたこれまでの教育の貧しさも想起されて、歳とって漸く俺も本卦還りするんだなと思うことである。真弓の喜び・悲しみに老境の自分の体感がよく共鳴しているように感じられる。けったいなチンチンはそれを苦にもせず持ち続けている僕自身にとっても不可思議そのものである。存在の根底的神秘の象徴のようにわが身にくっついている。そういうことを含めて真弓に色々と教わるものがある。子守りというのはなかなかに楽しい、やはり人生の慶事と思う。