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現代文化論

2007年4月28日

現 代 文 化 論 入 門   (福岡女学院大学セミナー)

    ――本と情報と近代主義――



                    1 本と言葉
                    2 「情報」の隘路
                    3 近代主義の帰結 

 創言社という出版社をやっている村上です。
 要するに本を作って売っているわけですが、皆さんは本というものについて、どんなイメージをお持ちでしょうか。
 この頃はもう大分前から、活字離れというようなことが言われて、若い人が本を読まなくなったと言って年寄りたちが嘆きます。しかし本といってもピンからキリ迄、ただ本を読めばいいなんてことはないですから、読みたい本や読むべき本がなければ、読まないのも当然だし読まなくてもいいでしょうね。
 ただ今日の主題は、出版文化について、何か本にまつわる話をしろと言われています。出版界の裏話をしても別に面白い話にもなりませんので、それで一層退屈な話になるかも知れませんが、昔はもの凄く貴重品だった本が、今はまたもの凄く粗末に扱われる消耗品になりましたから、どうしてそんな風になって来たのか。ちょっとそんなことを考えてみようかと思います。すると、なーんだ、詰まらない話か、と思われるかも知れない。実際詰まらないかも知れません。でも、私は皆さんが多分日頃あまり聞き慣れないようなことを話してみたい。きっと何処かで抵抗を感じられて、まさか、とか、そんな馬鹿な、と思われるかも知れないことをしゃべるのではないかな、と思います。
 抵抗や疑問を感じて頂いていいんです。半分はそれが目的です。なぜなら、ものを考えるって、そういうところから始まるんですね。気持ちよく、ああ分った解ったという話しか聞けない、聞きたくない、というのでは人間の成長ということがありません。それで私は嘘だけはつかない積りですから、面白くないかも知れませんがちょっと辛抱して、最後までお聞き頂ければと思います。
 


1 本と言葉


 (大事にされた本・・・)
 昔の人は、本というものを、頭からあり難いものだと考えて、ともかくも大事にされました。神棚に祭るくらいでした。そこに書かれている内容のことなどはむしろ後回しにしてでも、ただ活字で印刷された本を持つことや読むことを、いきなり好ましいことと推奨したりしたのは、バカみたいな話に聞こえるかも知れませんが、理由はあったのです。本というものがよきものとして、皆なに信じられていたからですね。本というのは神聖なものだった。本は昔は物価としても高価なものでしたが、ともかくも有り難い、貴重なものとして扱われました。
 今でも無論、本とはいいものだ、出来れば読むべきだと言われるし、皆さんも、漠然とでもそうお考えの方は少なくないと思います。なぜ本とはいいものなのか。読書というのは結構エネルギーの要るものですが、そういう読書が必要なことだと言われたり、皆なもそう思ったりするのはどうしてか。昔から本が大事にされて来た理由ですね、そういうことを一つ考えてみましょうか。
 何か具体的に知りたいことか何かがあって、それを知るにはあの本を読まねばならない、そんなことがあって、その本を大事にしたというなら話は簡単です。しかしそうではなくて、目の前に特別具体的な課題はなくとも、漠然とでも、本一般というものに畏敬の念を抱いていました。そういう雰囲気の由来ですね。


 (話を聞く態度ということ・・・)
 それで先ずは、ちょっと今この時間のことを考えてみて下さい。例えば今、私が詰まらない退屈な話をするとします。多分、詰まらない退屈な話しか私には出来ないのですが、それをちょっと我慢して最後まで聞いて頂く。すると、そういう時間はいかにも無駄な忍耐のように思われるかも知れませんが、そうではないのですね。話の内容はともかくとして、むしろこういう時間と場所が与えられた限り、その時間に最後まで付き合って、たとえ面白くなくとも話を聞き通して頂く。するとつまらない話でも、詰まらない話は詰まらないままに、何か考えさせられる問題というのはきっとあるものなのです。詰まらない話でも、それがどんな風に詰まらない話かということが、ちゃんと分かるというのは、詰まらないことではないのですね。忍耐をもってそういう経験を重ねるところにしか、本当の問題というのは見えては来ないと思います。
 話す方も聞く方も、先ずそこでお互い一所懸命話す、一所懸命聞く、そういう関係を大切にするところから、新しい知見も得られるし、楽しみや喜びも沸いてくる。内容というのは、先ずそういう関係における誠実な態度があって、その態度の故に獲得出来るものであります。内容があるから聞くというより、ちゃんと聞くから内容が得られる、という構図ですね。現代的な態度とは多分、今はそこが逆になっていると思いますが、本を大事にしたというのも、そういう意味で、昔は先ずは目の前に存在する本というものとの関係を大事にした、ということがあります。

 現代の態度は逆だろうというのは、聞く側は、面白ければ聞くが、面白くなければ聞かなくていいだろう、聞くか聞かないかは、聞く側の自由ではないか、というものだろうと思います。それには一理も二理もあって、折々にあんまり酷い話もありますから、それを強制的に聞け、なんて言われたら人権侵害じゃないか、と言いたくなる。そういうことはあるんですが、しかし面白くなかったら聞かないよと、聞く側に言われれば、話す側は、聴衆にわかり易くとか、面白おかしくとか色々配慮をして、結局語るべきことを水割りして話半分しか出来なくなる、ということが起りがちです。これは聞く側も損、話す側も消耗、誰にも得のない徒労を煽ることにしかならないように思います。だってちゃんとした話を聞きたいなら、ちゃんと話して貰って、きっちり聞き取らないと、その時間も労力も損じゃないですか。話を聞いて笑いたいのなら寄席に行けばいい。漫才聞けばいい。日本の話芸・話術というのも独立した立派な文化です。しかし話を聞くというのはそんなことばかりではない。愛嬌があるかないかという程度の話の上手・下手はあっても、真面目な議論をしたり聞いたりするという時には、雑音無用の集中ということがないと、話す側にも聞く側にも余り益はないだろうと思います。
 無視したり聞くのを拒否するのが正解のような詰まらない話と、聞いて損にならない話とを、何処でどう見分けるか。一定の根拠を持ってその判断が出来るためには、そういう自己を確立して幾らかの経験を積みませんと見えて来ません。そういう訓練の必要はありますから、今日はその一つの機会だと思って、分かっても分からなくても、面白くても面白くなくても、ともかくも聞いてみて下さい。そうして頂けたら最後に、なーんだ、結局詰まらなかったと思われても、私の話を聞いて頂いた目的はほぼ達せられたことになります。ちょっとした忍耐の経験というだけでも、一冊の本を読んだくらいの効能はあるからです。私は、一定の努力はする積りではありますが、あまりサービス精神は持ちたいとは思っていませんので、内容に関しては保証の限りではありません。

 人の話の聞き方というのと、本の読み方というのは、基本的には同じことだと思います。先ずは自分のまだ知らないことや、考えたこともないことを、そこで新しく見聞きしようということです。自分のすでによく承知していることであれば、その確認ということで済みますけれども、全く予想もしていないこととか、新規の言葉に出会って、知見を広げる、認識を新たにするということになりますと、それは何だろう、どういうことだろうと、自分でも反芻し考えながら受け取らないと、新しいことというのは自分の中に入って来ません。
 人間とは「ものを思う動物だ」と言ってよいのだと思いますが、思う・考えるというのは人間の自然・本性で、本当はそれが楽しいことなのですね。学ぶということの楽しさ、新しいことを知るということの楽しさがあります。しかし新しいことというのは慣れないことでもあり、それをちゃんと受け取るというには多少の忍耐や努力が要ります。その作法ということもあります。本を読むのに、「襟を正して読む」という言い方もありますが、人間の関係のこととして、ものを学ぶには学び方としてそこに倫理というものも通って来ます。その態度というものが問われるのです。
 

 (「学び方」を学ぶ・・・)
 そんなテーマには全く関心がないという人には時間の損かも知れませんが、それなら月謝まで払って大学に籍を置き、講義を聴いたりするということが全部無駄な、損なことになりかねません。本を読んだり人の話を聞いたりして勉強する、学ぶということは、自分にとって面白いことを見つけたり、役に立つ知識を身に付けたり、要するに見聞を広げるという意味で有意義だというだけではないのですね。それだけなら何も大学などに来なくても、誰でも何時でも色々なものに接し、人生経験を重ねて生きて行くわけですから、何時でも何処でも出来ることです。そういうことも沢山あっていいのですが、それより殊更に大学などで学ぶというのは、人間や人生というものの「学び方」を学ぶということです。それは今現在の自分自身というものを超えて行こうということです。そういう、将来に亘っても応用の利く、ものの学び方、本の読み方とか人の話の聞き方とか、問題の掴み方、事柄の急所の在り処とかですね、そういう大事なことを見分ける方法を学び取らねばならないと思います。それが自分の本当の得になる、自分の利益です。生きて行く上でうっかり人に騙されたりしないためにも、人の話の聞き方というのは訓練しておかねばならない。学ぶということは、そういうことですね。
 単なる知識や見聞、面白そうなことだけを求めるなら、大学などより外の世界の方が広いし、賑やかです。大学で勉強したりする必要はなくなると思います。だから、今の自分にはまだ少しも馴染まないような新しいこと、すぐには何も面白いとも感じられない、しかし必要かも知れない大事なこと、或いは中味を知ったら凄く面白いかも知れない様々のこと。そういうことを探しながら、ものの見方、考え方、掴み方というものを大学で学ばれるのだろうと思います。自分の単なる好みや一面的な興味だけで物事を選択して足れりとするなら、何も辛抱したり努力する必要などはなくなりますが、それは現状維持の自分でいいということですね。でもそれ、成長することの拒否ですから、自分自身の損ではないでしょうか。
 

 (自己向上のために・・・)
 だから、何でも新しくものを学ぶという時には、その初めには必ず多少とも忍耐や努力が要請されます。だってまだ今の自分には馴染んでいない、未知の世界に入って行こうとするわけですから、初めから全部ルンルン気分というわけには行かないです。自分にとってただ面白く感じられるということだけで勝負して、日常の暮らしの表層の楽しさや利益・知識ということだけを追い求めて行きますと、一見利益や知識と思われるものにも贋物や、本当に詰まらないことというのは一杯ありますから、その見分けもつかずに繰り返し、何時までも騙されるということになり易い。本当には詰まらない、どうでもいいことを、うっかり面白いなんて錯角して現をぬかし、後で後悔するなんてことになったら、本当に詰まらないでしょう。面白いことを取り逃がすという逆のこともあり得ます。損というなら、それが損です。そういう大きな損を蒙らないために、色んな問題や見方や考え方があるということを、機会ある度に聞いて知っておくということは、決して無駄ではないと思います。

 本を読むということも全く同じことです。たとえよく解らなかったり、賛成しかねる内容の本でも、そういう本を読んで考える、自分の精神を鍛えて行く、そういう意味があります。だから内容は後回しでも読書という、読むという行為そのものが人生経験・人間修行の中心的な意味を持つと考えられます。だから一般に何の保留もなくいきなり、本は読め、本は大事だと言われて来たわけです。難しい内容の本でも、ねじ鉢巻して読み上げる、そういうことを皆な、学者だけではなく昔の人間は大事にしました。そして概ね本というものには、そういう人々の期待に答えるような、ちゃんとした内容のあるものが確かに多かったのです。


 (言葉の位相・・・)
 本というものがただ「本」というだけで一定の信用を博したというのは、そこには俗に言う活字信仰というようなこともあるんですが、もっと本質的には、一つには皆な誰もが根本的に言葉というものを大事にした、ということがあります。言葉というものへの信頼感というものがあった。そして特に書き言葉、文字というものへの、これまた深い信仰とでも呼ぶ方が早いような一般的な信頼感があります。書き言葉への信仰というのは、例えば子供が生まれて名づけをすると、その命名を墨で書き付けて床の間に飾るとか、暮らしの風習の中にも見られますが、文化というのは本質的には言語化、文字化ということですね。存在の一切のあり方、その意味というものが言葉・文字によって定着させられる。文字は古代ではそのままが神様の徴表・徴でした。神社のご神体が、書かれた文字であったりもします。文字、或いは言葉というのは単なる記号とか、コミュニケーションの道具というのではありませんでした。文字は人間の精神の在り処の徴だったのです。そういう言葉・文字を使って人間は考える、心を捉える、精神を形成する。文字で書かれ、読まれる文章とはそういうものだったと思います。


 (本というものの基本性格・・・)
 もう一つは、本というものの内容が大体において、そういう信頼すべき言葉の本質を映して、文章にもきっちりした作法が見られ、基本的に人間というものの最も大事な問題を考えるための条件を備えていた、ということがあります。本というのは、何時でも単に私的なことではなく公的な真実や正義に関って、万人の心を肥やすことに向く内容を備えていた、備えていなければならない、と考えられて来たと思います。勿論何時の世にも軟派のお遊びの本も、くだらない本というのもありますけれども、そんなのは目ではない。ちゃんとした、考える内容というものを持ったものを基本的に「本」と呼んだのです。ちょっと重々しく書物・書籍とも呼ばれる。雑駁な印刷物というのではなかったです。


 (言葉・本の公共性・・・)
 英語でも出版というのは、Publication. 或いは Publishing. と言います。出版社は Publisher. です。Public. つまり公共の、公的営みとして本というものが位置づけられている。本、出版とは、日本だけではない、西洋でも単に私的レベルのことではありませんでした。
 だから世界的に、人間の歴史というものに於いてはどこでも世界中、昔はもっと言葉というものが神聖なもの、崇高なものとして大事に見られていたと思います。その中でも特に日本では、「言霊」というような言葉もあって、言葉へのこだわりは独特に洗練されて来ておりました。東先生のご研究や講義を受けられて、万葉集を初めとする日本の古典を学ばれているなら、日本語というものがどのくらい奥行きを持った凄い言語かということはお分かりと思いますが、私たちはそういう言葉で養われて来ていると思います。自分が生かされている日本語の言葉の精神を大切に受継ぎ、日本人として生まれたのならば、自分自身の母国語たる日本語に誇りを持って生きなくてどうする、と私は言いたい。が、それはともかく、西洋でも言葉は大事にされ、本というのは公共の最も基本的な文化財、人間の精神の根本に関る、基本の基に当たる文化でした。


 (言葉への畏敬・・・)
 例えば聖書。バイブル・Bible というのは、本の中の本、という意味ですが、そのヨハネ伝の冒頭は「初めに言葉ありき。」ですね。「言葉は神であった」と、続きます。「エン・アロケー・エン・ホ・ロゴス」というギリシャ語のロゴスが「言葉」に当たる。人間に与えられている言葉というものが、私たちにとって最も大切な崇高なものだということがよく出ていると思います。教会では信仰の書として聖書を読みますから当然のように、その聖書のロゴス・言葉は、神の子イエス様のことを指すのだと釈義されているようですけれども、それをロゴスと呼んでいるということ自体が、言葉を大切なものと見ているということを物語っています。ついでに申しますと、ロゴスは普通は、ことわり(理)、理法、根本的な意味というように訳されることが多く、普遍的な原理という意味を孕んでいます。存在の、或いは命の、最も大切な急所・根本的な原理というのは、言葉に宿る、言葉を通して初めて掴まれる、ということです。
 国や民俗、時代状況の如何を問わず、人間として生きて行く上で、一番大事になって来るものは言葉である、と言えます。人が「ものを思う」という時の「思う」も、僕らは言葉で思っているのですし、人と人の関係というのも、それを切り結んで行くのはお互いの言葉なのですね。心の通う一言、というのがあるはずですし、そんな言い方ってあるか、と非難したくなるようなこともあるでしょう。何時でも言葉によって事柄の真偽が計られます。言葉というものをいい加減に扱っては、時・所・国・人の如何を問わず、個人の認識も思考も、共同的な人間の関係というものも皆な崩れる、人間というものが蒸発してしまうと思われます。



2 「情報」の隘路


 (言葉への不信・・・)
 しかし現代、言葉への信頼というものはすっかり薄れました。言葉は軽い軽いものとなった。そして活字はやたらの氾濫ですから、無条件に本とはいいものだ、などというような感想の持ちようがないだろうと思います。
 読まれるべきいい本がないのではない。しかし「悪貨は良貨を駆逐する」ではないが、どうでもいいような内容のてらてらした薄っぺらな本が氾濫して、何が何やら分からなくなると、本当に好いものも探しにくくなりますね。


 (情報という概念・・・)
 本とは、元々「言葉の本」でありましたが、今は情報というような観念で括られることが多いかと思います。その結果、マスコミなどの新聞・雑誌・グラフ、更にテレビ・ラジオ・インターネットの情報というものと同じレベルで、そういう情報の一部門として本もある、そういうことになります。別に本が特別なものではなくなります。
 特別なものでなくてもいい。何も私は本を特別のものにしたいわけでも何でもないんです。私も出版社をやっていますから情報産業の隅っこにいることになりますが、しかし本の内容を情報と捉え、本とはそういう情報の媒体であり、だから言葉というものが情報伝達の道具とされると、そこから本のイメージは変って来ますね。人間の人間性というものを根本で統べるような大事な言葉というものが、現代の情報というような捉え方をされますと、言葉はそんなに大事なものではなくなります。私たちの自己意識でどうにでも扱える道具となって、大事なのはむしろ、言葉を通して手に入れられる知識だけということになります。すると、自分が今知りたいことが分かりさえすれば、言葉なんてどう使われようと、まあ大したことじゃないということになる。心を養う言葉なんて、そんなものないよ、知らんよということになる。
 そういう言葉の捉え方をしますと、気持ちよい言葉とか納得出来る言葉というのは沢山あっても、それは今の自分の心持においてそうだというだけです。その限りのこととしてはそれでいいですが、すると言葉の意味を考えるという関心などより情報の広さ、多さ、情報の質を高めなければ、という方向しか生み出さないと思われます。言葉とは単なるコミュニケーションの道具だ、ということになるからです。


 (危ない概念・・・)
 しかしそういう捉え方は、ちょっと危ない考え方なんですね。情報という概念はヤバイ概念です。よほど気をつけねば自分が消されてしまうような、或いは人を殺してしまうような危ない概念だと思います。
 現代は情報科学とか情報学とかが大学でも大きな領域を持つようになり、情報という言葉が流行って、ともかくも人間が社会的に生きて行く上で、情報とは大事なことでもあれば、情報量が豊富なことは好いことだと思われているでしょうか。大事でないと言いたいのではありませんし、情報の豊富なことそれ自体が悪いとも思いません。しかしそんなことを言うなら、人間に関することで大事でないようなことはないですから、どう大事で、何が問題かということを押さえておかねばならないと思います。携帯電話やインターネットの技術と経済が主流となって、情報という概念が世界を被ってしまいそうな状況ですが、情報とは、そもそも何のことだと皆さんは思われますか。無限に情報があって各自の選択肢が広がることは豊かさの一つである、情報を駆使して人間にとってよきことや、自分自身の幸せを求める、それが自由だ、という風に考えられているかも知れないですが、本当にそうかどうか、そういうことが可能かどうかですね。
 

 (西垣通の情報論・・・)
 今、コンピューター時代のネットワーク情報の普及というのは、IT革命と呼ばれたりして、将に世界を変えつつあるような新しい時代の、新しい状況を生み出している。その可能性は無限だと言われるくらい、皆な前向きに捉えようとされています。先週の新聞にも東大の偉い先生のそんな論文が載っていました。
 東京大学・大学院の情報学の権威と言われる西垣通教授の「ネット空間の魅惑」(朝日新聞・西部7月8日夕刊)という記事ですが、しかし幾ら読んでも訳の分からない文章でした。そこには先ず、「インターネットという文化的衝撃をより深い位相でとらえる知的努力」が必要だ、と書かれているのですが、しかしその中味はまるで何にもないのですね。
 こんなことが言われている。・・・現代の社会的現実は複雑で、誰にも「現実像」というものが掴み難い。しかし、「こうして『確かな現実』の姿を見失い、戸惑うわれわれを支える存在が(テレビ・新聞の)マスメディアなのである。」そして、インターネットの世界も混沌としたカオスのようだが、それは「しかし一方、迷宮のごときミステリアスな刺激をはらみ、独特の魅惑を持っているのだ。少なくともそれは、マスメディアの用意するお馴染みの現実像に亀裂を入れ、現実を複眼的に眺める新鮮な視座を提供することができる。」と。そしてマスコミとインターネットが相補えば、「われわれを取り巻く現実像には、従来にない奥行きと多元的な広がりが生まれるはずだ。」と結ばれています。全体の趣旨はそれだけです。
 うんと好意的に読み取ろうとしても、要するにインターネットにはマスコミとはまた違った、様々の意見や情報があるよ、というだけの話です。始めに言われている「深い位相でとらえる知的努力」って何のことだろうと思います。もっと呑気なことも書いてある。インターネットは「ごく普通の市民がほとんど無料で、世界中から知識を集めることができ、また世界中に向けて自分の主張を発信することができる。」
 どうしてほとんど無料でしょう。東大の先生は大学のコンピューターを無料で使えるかもしれないが、普通の市民は高いコンピューターを自分で買い、常時接続でも月に何千円もかかりますね。大学の情報学の先生って、呑気なことがしゃべれるものだと感心します。


 (自分自身の視座・・・)
 インターネットを前向きに捉えていいと思います。しかし、それを捉えるのは私たち一人一人です。「現実を複眼的に眺める新鮮な視座」が得られると、西垣先生は言うが、物事を判断する「視座」なんて、自分自身が内的に持とうとしなければ、インターネットだろうが何だろうが、外から自動的に与えられるものではありません。自分にとっての情報の意味というものを、自分自身の深い切実な次元で捉え返さないと、マスコミやインターネットに頼って、どうして自分の視座・生き方などを決めることが出来るでしょう。


 (情報と異質な主体・・・)
 先ず考えられることは、人間にとってよきこと、各自の幸せの為に必要な情報というのは、情報の多さでも何でもないということです。必要な良質の情報が必要なだけ得られることが大事なんです。そんなに滅多やたら情報が必要なわけではない。その必要な情報をどう選ぶか、どういう情報が本当に必要かということは、外部の情報の賑やかさとは殆ど関係がありません。
 必要な情報を得るために、その選択の幅は広い方がいいし、情報量の豊富なことが必要だろうと言われますが、仮に情報量が膨大になったら、たとえ最も必要な情報がその何処かにはあり得ても、到底精確にはそれを選び出す余裕も方法もないだろうと思います。第一それを探す時間がもたないと思います。どこかある点で切り上げて、一定の場面で参考に出来れば上々ということでしょう。私は何処まで行っても必要な情報が全部揃うなんてことはあり得ないし、そんな必要もない。人間が獲得すべき根本的に大事で必要なことというのは、そういう情報というような次元のこととは全く異質なものだと考えています。

 だから、情報ということを評価する地点、レベルというのが、西垣さんのような人と私とでは、始めに立てられる問題の前提が違うと思います。現代の情報化社会をただひたすら推進しようという前提で、西垣さんは情報ということをしゃにむに評価しようとする。しかし私は、そういう動きの私たちにとっての意味を問うところから出発しないと、評価も批判も出来ないのではないかと言いたいのです。西垣さんのような主張は、理系の人の発想だろうと思いますが、いわゆる情報を、文化のこととして考察しようとしますと、そこには必ず心を持った生きた「人間」が入って来ますから、西垣さんのような意識では、考察の方向も方法も立たないのだろうと思います。
 大雑把な状況把握とか、時々刻々の何かの速報とか、買いたい物や有名な店を探すとか、言わば暮らしや社会の表層の次元では大いに利用価値があるかも知れない。しかし、人間、どう生きるかとか、自分自身の人生や情報そのものの意味を、間違わないように捉えようとするなら、一旦情報から離れる必要があると思います。自分自身の深層において自分というものを確立しないと、何が必要な情報かも見えては来ないはずであります。

 何を求め、何をどうしたいのか。そうしたいと今自分の思うことが、本当にそうすべきで、そうした方がいいことなのかどうか。そういうことに悩んだり、困ったりしない人があるでしょうか。それは自分が自分としてどう生きるかというような問題で、そういうことは、いわゆる外的な情報とは殆ど無関係で、自分自身の内に掴まれ、確立すべき自分自身の視点というものに直接関係します。自分の思いの質・性格というものもありますね。そこを鍛え学んで、自分というものを本当に豊かに確立しなければ、幾ら情報の世界が豊かだなんて言われても、豊かになりようはないのです。情報を使いこなす主体の視点・視座・力量の涵養ということは、情報の質や多寡とは殆ど無関係で、自らの内部にそれを扱う方法を獲得しておかないと、ただ訳もなく情報に飲み込まれるだけとなり兼ねません。


 (ジャーナリズムの錯覚・・・)
 自分自身において情報選択の眼を養い、鍛え洗練することがなければ、何にも始まらないし、情報が情報にもならないでしょう。しかし他方、やたら沢山の情報に接し、多くの情報を渡り歩くと、それだけでそこから見えて来るもの、というものもありはするのです。そういうものもあると思います。しかし、そこで見えて来るものというのは、見る人の視座において、やはりその見る人自身の問題意識や器量の限りにおいて見えるものですから、何か見えるとしても、それは必ずしも情報の多さとは質的には関係のない事柄なんです。
 これはしばしばジャーナリストの陥っている錯覚ですが、情報が多いから社会や人間のことがよく分かると錯覚してしまう。そういう情報の中で何が大事な情報かということを判断して、そこから何を読み取るかということが大切なのに、そういう大切なことが情報の多さで得られたり、保証されると思ってしまう。その結果、そこで自足されてしまって、幾ら多いといわれても無限ではない、一定の限られた情報に過ぎないはずですが、それでも情報が多いと思うことで、それが総て、それで全部と思ってしまうような抽象的な錯角に陥ります。だから自分の目に入らなかった情報や、いわゆる情報としての一定の形で提供され難いような、人間のもっと隠れた問題や、深い心の機微は忘れ去られて行きます。新聞やテレビの報道が、少しも本当の社会や人間の状況の真相を映していないのは、情報なんてものの抽象的な過大評価があるからなんですね。
 マスコミでは、客観報道なんて言葉が使われたりして、報道の中正、公正ということが何時も言われたりしますけれども、それはその報道で誰かを傷つけたりはしていないはずだ、という程度の意味以上のことではあり得ません。そんなことよりもっと報ずべきことがあったかも知れない。その場の担当者が判断し選択した限りで、記事や番組は編集され編成されるのですから、善意・悪意、良し悪しに関係なく、客観報道なんてものはあり得ないのです。私はあり得ないものを欲しいなどとは思いません。客観報道など別に必要もないと思っています。主観報道でいいから、もっとちゃんと信用出来る主観を養って、私たち普通の市民の本当に知るべきことを、ちゃんと知らせて欲しいと思います。もっと知らせてくれてもいいことを、マスメディアは少しも報じてはくれていないのです。マスコミに従事する個々の人達の善意や奮闘は疑いませんけれども、客観報道なんてものがあり得るかのように言うところが、マスコミの錯覚であり傲慢であり欺瞞となります。
 さっきの西垣さんの、「マスメディアが確かな現実像を与えてくれる」なんていう呑気な話も同じことです。たとえマスコミがそういう「確かな現実像」を与えようと必死に努力してくれても、実際にはそんなことは不可能です。新聞やテレビ・マスコミの報ずる世界の状況というのは、全部嘘だとは思いませんが「本当」は少ししかない。真実は所々、部分的に露出しているだけです。情報とは元々そういうものだと考えていいと思います。それらに頼って大事な問題の判断が出来るような代物ではありません。


 (求めよ、さらば与えられん・・・)
 だからまたインターネットで、中味のよく分かりもしない情報の量がただ豊かで、五万と並んでいて、選択肢が一杯あるように見えても、それを直ちに自分の選択を広げ、より豊かに生きられる条件だなどと思うのは、素人騙しに引っ掛かったような錯覚なのです。
 本当に必要なものはほんの少しで充分です。情報が大事というなら、本当に自分にとって大事な情報がすぐ掴めなければならない。大事な情報だけが要るんです。そして何を求めているのかということが自分の中でハッキリして来るなら、必要な情報というのは自ずから見えて来るようになるのですね。インターネットというのはそこで利用すれば、利用出来るものだと思います。
 自分にとって必要な切実な情報とはどんな情報か、今何が必要か、そういうことが見えて来ないというなら、まだ自分自身が何を求めようとしているのかも、自分で分かっていないということです。それならやたら情報を求めても無駄だし、情報なんてものにうつつを抜かすより、自分自身の考え方や生き方というものを求め、地道に考えるようにしなければならない。
 自分は本当にはどう生きたいのか。そういう深い切実な次元で自分というものを掴むと、そういう自分にとって必要な情報は、何処にあるどんな情報か、ということが必ず見えるようになります。そういうことを聖書では、「求めよ、さらば与えられん。」(マタイ7・7)と言っています。だから余計な情報があり過ぎるということは、かえって煩わしい消耗が増えるだけです。時間つぶしに遊ぶだけというならともかくですが、それでもそういう消耗を皆なが競ってやれば、情報産業は儲かって笑いが止まらないかも知れない。皆な単なる情報の消費者にされるだけですね。西垣さんはインターネットは只同然だなどと言ったけれども、東大の先生には情報産業から、宣伝して貰ったと言って献金でも行くのでしょうか。インターネットには、これが無料、あれも無料と言って、皆なに使わせようとして企業は様々のサービスを謳っていますね。裏で儲ける仕組みじゃないですか。そんなことを疑いたくなるくらい、先の西垣教授の記事「ネット空間の魅惑」は酷い話でありました。そんな酷い内容の文章を、さも意味ありげに載せる新聞も酷いと思います。


 (情報という語の品性・・・)
 情報という言葉は、一昔前までは、そういう言葉が使われ始めた時は、どうにもいかがわしいこと、という意味を皆なが了解していて流布されていた言葉です。少しもいい意味は持っていませんでした。それが技術的・経済的に世界中をネットワーク化するというアメリカ的価値観が世界の状況を左右するようになって来て、いわゆる情報産業主導で、情報という言葉が一種ニュートラルに、無機的に使われるようになって来たのです。意味が変って来ました。しかし、情報という言葉に嵌っていた根本的な性格は、依然変らないと思います。
 情報といえば、昔は公然と人前には出せない、不潔で隠微で何か為にする秘密情報、ということで、まともな人間が相手にすることではなかった。戦前日本の軍隊や警察、企業で、情報部といえばスパイのことで、敵の内情を探り秘密をあばく、下品で非人間的な部門のことを言いました。だから一般にも、情報屋と言えばいわゆる犬、スパイの類のことをする人を指し、そういう情報屋はいわゆる下がり商売として軽蔑されました。そういう言い方は今言うなら差別語に当たりますが、情報というのは元々、そういう半端な、いかがわしいことについて言われた言葉です。


 (知るべきことを知る・・・)
 私たちがそういう他人の秘密情報を手に入れるとか、物事の真相をあばくとかという時、今は大分鈍感になって来たのだと思いますが、しかしそれでも、そういう言葉にはどこか後ろめたさというか、不健康な不潔感が伴ないはしないでしょうか。情報という語が下品な言葉であった所以です。それは、人が何かを知るということは、何を知ってもいい、ただ何でも知るほどいい、というのではない。知りたいなどと思ってはならないこともあり、もっと人として、知るべきことをちゃんと知る、知らねばならないことがある、そういうことが裏にあるからだと思います。
 何でも貪欲に知りたい、何でも知ろうとすることは必ずしも悪いことではないように思えます。知的好奇心とか、新しいものへの挑戦とか、知ろうとして努力すること、意欲することはいいことです。しかし、そう意欲したからといって、何でも全部知るということは人間には不可能なんですね。だから知るべきことを知る、という根本的な自己限定、基本的な選択が初めにないと、何でも知ってやろうと思えば思うほど、かえってとりとめもなく深い森の中で一人迷って彷徨うということにならざるを得ない。だから知るべきことがあるということは、知る必要のないことや知ってはならないこともある、ということでもあり、大事なことの知り方というものがあるということで、そこに自ずから知識・知というものに倫理が問われるということが起るのです。人間にとってのその知識の意味、生きていることそのことの意味というものが問われて来ます。
 

 (生の深い充足のために・・・)
 だから、ただ何でも広く情報を集めて知るということが価値のようになったのは、生きるということの手応えが極めて希薄になった現代の、軽々しいファッションか経済家の策略に過ぎません。物知りというのは時に重宝なことはあっても、それだけでその人が尊敬されるようなことはないでしょう。むしろ昔は、物知りというのは恥ずかしいことでした。下らない事まで知っているというのは軽蔑の対象になりこそすれ、誰も感心などしないです。そんなことより、本当に人として必ず知っておくべき基本の事柄や、言葉の深い意味というものを、その深さにおいて掴んでいるかどうかということが問題になります。そういう一番大事なことをきっちり学ぶ。大学での勉強とはそういうことでなければならないと思いますが、それは自分が、生の手応えを濃厚にして人生を充実したものにするために必要なことですね。

だから学ぶというのは、幾つかの新しい言葉、或いは難しい言葉に出会ったりして、その意味を探求して会得する、何でもそういうところから始まるはずです。今の自分に分かっている言葉、快い言葉だけで勝負していたら、何時までたっても今の自分を超えることは出来ない。つまり成長はないのです。難しかったり、面倒だったりする堅い本を昔の人が大事にしたのは、そういう意味で、人間の本当の充実・充足、幸せの在り処ということを、大事に見ようとしていたからだと言えると思います。



3 近代主義の帰結 


 (何が間違った?・・・)
 しかし、幾ら私が言葉や本は大切だ、大切だったなどと申し上げても、皆さんはもう一つピンと来ない、関係ないよと言いたくはありませんか。言葉や本に対する敬意や信頼感はからっきしなくなったと言ってもよいかと思いますが、そうなって来たにつけては、やはりそれにも理由があっただろうと思います。それは、まずは人々の心の深みを捉える、真に読者の必要に応える本が少なくなって来た、無くなったということではないでしょうか。心を捉えるどころか、裏切られたというような感想も、私自身がしばしば感じさせられて来た事実です。そして言葉や本や、学ぶということを何より大事にしていたはずの昔の大人たちが、そう言い、そうしながらこれまでに作って来た歴史、時代というのは、何ということはない、侵略戦争をやり、差別を深め、汚職や犯罪を一杯振り撒いて、人間不信と環境破壊を招いただけではなかったのか。
 どうにも生き辛い現代のような、こんな状況を作り出して来たのは、他でもない、一生懸命勉強して来た先達や今の大人たちです。私や、皆さん方の親御さん達の世代も含めてということになりますが、太平洋戦争の戦前から戦後にかけての世代が、民主的な新しい時代を作るのだと言いながら、しゃにむに走ってこういう時代を作ってしまった。私もその世代の一人ですから、皆さんに対して責任を感じねばならないかと思います。学問や本は大事にした。しかしその結果は、こんな生き辛い、嘘ばっかりが跋扈して混乱と頽廃にあえぐ現代のような世界を作った。勉強などして何になるんだと子供達から言われるような、明日も見えない時代になりました。
 何がどう問題だったのでしょうか? 
 現代の情報化社会というものも、活字離れの状況というのも、私たち大人が自ら好んで作りあげて来た社会のあり方です。世界中に人間不信が蔓延し、アメリカはイラクを滅茶苦茶に叩くし、日本でもとんでもない犯罪や困ったことばかりが続発します。そういう時代に皆さんは生まれ育って来られたというだけで、責任は皆さんにはない。
 

 (西洋化・近代化への傾斜・・・)
 明治維新以降、日本は西洋に追いつけ、追い越せで、あらゆる場面で西洋の文物を移入し西洋化を推し進めて来ました。この大学もミッションですからそういう西洋的思想・価値観の移入・定着のための機関たり得ています。西洋化の流れの一つですね。そもそも大学の学問の体系というものが西洋伝来のものですが、暮らしの様式、文化のあらゆる面で日本は西洋に憧れたと思います。
 西洋の文化はそれだけの迫力を持っていて、それまでの江戸時代からの封建的な日本は遅れていたわけで、文明開化は文句なしにいいこと、日本にとっての希望と捉えられました。先ずは西洋的な教養を身につけるところから、自分達の新しい文化が立ち上がるとしたのです。西洋化はまた近代化と呼ばれました。近代化・近代主義とは、西洋でも古い因習や考え方を壊して、科学技術の発展や経済体制の合理化・広域化と歩調の合った、個人主義・自由主義のデモクラシー思想が押し出されてくる、そういう世界的傾向のことを言ったものですが、日本の近代化とは要するに、そういう西洋思想の移入、その真似のことでした。
 始めは和魂洋才と言われたりして、猿真似ではないよ、そこに日本人の魂を貫くのだとされて、私達の固有の日本語も大事に扱われはしたのですが、如何せん、思考の中心軸や暮らしの枠組みの、根本的な価値観の基準が西洋化してしまって、結局魂を持って行かれることになります。それ故、自由主義、個人主義、人類普遍主義という類の西洋思想を片っ端移入して、デモクラシー・民主化という名のもとに、日本的な伝統的価値観や住民の共同体を解体・追放して、訳もなく進歩主義・国際主義を奉ずるようになりました。すると、今だにまだ現代でも同じ発想ではないかと思われますが、そのために、古代から受継がれて来ているような文化の基層の、日本人の体質や感覚、とりわけ日本語・言葉というものが、第一に大事にされるべきものではなくなります。皆さんでも、日本の伝統文化や古典・日本語などより、英語や欧米文化の方が好きだ、得意だ、少なくとも、より英語の方に関心がある、という人の方が多くはありませんか。西洋的なものの方がオシャレだったりして。そういうのが近代以来の日本文化の雰囲気となったのです。


 (伝統的美質の喪失・・・)
 西洋の文物に通じたり英語が使えるというのが悪いわけはない。進取の気鋭はなければならないし、自分の欠を補い乗り越えるために、外来の文化を取り入れることはいいことだと思う。しかし哀しいかな、二足の草鞋は履けないというか、二兎は追い難いというか、西洋文化に憧れて行った分、日本人であるのに自分自身がそこに生まれ育った日本文化は、無視され等閑に付されます。そればかりか、進歩発展のためには古い日本的な考えなどは邪魔だとして、日本の古い伝統というものは見境もなく遅れたもの、役に立たないものとして放棄されます。その結果、日本文化に根付いていたよきもの、例えば人間同士の信頼関係を優先する共同的倫理とか、礼儀とか勤勉、正義感、柔和な人間理解、自然への愛惜を育んだ独特の美的感覚とか、特徴的な日本人の美質というものが薄れて行きました。体質に嵌っているような原初的感覚というものは、忘れようとしても簡単には忘れ去れることではないのですけれども、しかしまあ、日本的なものというのは、趣味か道楽かお遊びのレベルに貶められて、お茶やお花のお家芸なんてものは流行ったりしても、思考や暮らしの基本的な枠組みは殆ど完全に西洋化し、近代化したのです。


 (太平洋侵略戦争・・・)
 すると勿論、そういう傾向に反対する民族主義者も現れます。だから、今度はそういう西洋志向への反動として、いわゆる国粋主義者たちは、天皇を担いだりして侵略戦争も起しました。その反省もしなければならないと言われたりもします。しかし私に言わせれば、日本の起した大きな戦争、満州事変・日中戦争や太平洋戦争の侵略戦争は、西洋化・近代化に反対したというよりも、むしろ西洋志向に乗っかって、性急に日本が西洋の真似をしようとした、実に近代主義そのものの結果だったと思います。明治維新以来、日本は富国強兵策をとって、軍隊の近代化も推し進めて来ていたのです。大東亜共栄圏などと称して日本を東アジアの盟主に仕立て、近隣の国々の親玉になろうという野望であったでしょうが、そうしないと日本が、ひいてはアジアも全部西洋に乗っ取られてしまうという危機感と共に、西洋に負けてなるものかということで、その真似をして、先制攻撃を図るということであったかと思います。日本の侵略戦争とは、明治維新以降の西洋化・文明開化の鬼子であり、世界認識や自己自身のアイデンティティーの捉え方まで西洋の真似をしようとした、そういう一つの中間期の帰結だったと思います。


 (理念・学問の西洋化・・・)
 だから日本は、民族主義者も進歩主義者・リベラリストも、右翼も左翼も同じことで、法体系、行政・制度から経済・学問・思想、暮らしの端々まで、全面的に国を挙げて近代化・西洋化を志向して、それが日本の近代史というものになって来ます。時代の指導的な理念が総て西洋化の推進ですから、学問の方法ということにおいても、各科専門分野の違いを超えて、万事が西洋流のいわゆる科学的研究の対象として扱われます。何を探求するにも科学的方法というのが錦の御旗のようになります。今でも一層そうですね。
 そうすると、日本的・伝統的なものを取り上げる場合でも、その深部の独特性というものには蓋をするか括弧に入れられて、専ら西洋流の理論に合わせて解釈するということになります。科学的方法に馴染まない要素は切り捨てられます。いわゆる科学的方法というのは殆ど万能で、それで解けないものはこの世には存在しないとくらいに考えられているからです。だから主題や対象の特質に則った独自の方法の案出ということは出て来ないのです。そういう状況で、日本の国語・日本語というものでも、西洋の言語学や文法論に合わせて、西洋流の方法で体系化されて行きます。
 例えば私たちが義務教育で学んで来た学校文法というのは、橋本進吉という国語学者の理論が元になっていましたが、それは元々発想も機構も違う日本語を他国の西洋の言語理論の体系に合わせて説明しようとされたものです。誰にも文法って国語の授業の中でも一番退屈で分からなかった科目ではなかったでしょうか。助詞、助動詞の分類や活用、「こ、き、くる、くる、」なんて暗記させられたり。当然そういう橋本文法への批判も出て来て、何十年来議論はされて来ています。しかし、三浦つとむという哲学者に「日本語はどういう言語か」という本がありますけれども、本当に、どういう言語か、二十一世紀の今になっても、理論としての日本語の構造というのは、もう一つはっきりさせられたとは言えないのです。西洋の言語論というものを詳しく研究なさる学者は沢山おられても、日本語を日本語として、詰めて究めようとされる学者は少ない。日本語がおかしくなるわけと思います。

 もう一例申しますと、夏目漱石は明治から大正にかけての国際的な教養を深く身につけた偉大な人ですが、ロンドンに留学をして英文学を修めました。その漱石がやがて、イギリスは大嫌いだと言うようになります。「私の個人主義」という講演がありますが、そこで漱石は、西洋の真似ばかりしていては自分がなくなる、もっと自分というものに誇りを持ちたい、というような意味のことを強調しています。日本のひたすらな西洋化への反省です。だから無論、当時から漱石以外でも、そういう反省はあちこち出ていて、いわゆる日本の近代化の進め方について議論はされます。しかしそれでも漱石を含めて、性急な西洋化に反対するという人たち自身が、近代化、つまり西洋的な進歩主義や普遍主義・人間主義の推進ということを、根底においては何も疑わずに受け入れています。反省は何時も極めて不徹底です。漱石はラディカルにものを考えた人ですけれども、やっぱり教養や学問のない人間なんてダメだと言って、西洋的な理知というものを人間理解の根底に据えて最後まで貫いた人です。
 日本の古典にも造詣の深かった漱石の弟子、芥川竜之介もやはり漱石と同じだったと思います。理系の学問に至っては勿論、モデルが西洋にしかないわけで、終始あちらを向くことが商売のようになっています。


 (本の内容の近代主義・・・)
 そのように分野を問わず、あらゆる理論が、つまり出版される本が、そういう西洋仕込みの近代主義的価値観の範疇で理論を競い、それぞれの深さを求めつつ、近代日本の文化の土壌を醸成して行きます。同時にそういう理論に支えられて近代的資本主義の経済が深化して行く。すると、古来からの日本人の言葉への愛惜や尊崇の念が、始めはまだ本屋にも書き手にも読み手にも共有されていたものが次第に薄れて、本は単なる商品となって行くだけではなく、押しなべてその内容が西洋化を深め、一層近代主義化して来ます。すると活字の言葉が伝統的な普通の日本語の語感とは齟齬を来すようにもなり、そこから次第に、内容的にも本当に切実な庶民・市民の感じる必要と、微妙に食い違って来ただろうと思います。つまり読者の本離れが始まります。読者は、ともかくも本を大事にはしたいと思うものの、その本がもう一つ血肉にならないという場面で迷わざるを得なくなる。こうして次第に本の信用は低下して来たように思います。
 それはまた、書き言葉・文字の権威の低下ということでもあります。昔は文字に権威があって、だから文字は時に民衆支配の道具であり、また文字を知らない人に偽の書付を与えてかどわかすとか、文字の権威は権力として困った使われ方もしたわけですが、そういう支配・偶像としての文字の権威も幾らか低下したと同時に、文字の神聖さは完璧に失われることになります。本の歴史や機能はそのまま文字の歴史や役割であり、文字や本の不信用は、即ちまた学問・理論一般への不信感でもあります。大学や学問の権威などというものも始めの頃にはありましたが、今は殆ど失墜しました。それでいいという面と、何か情けないという面と、両方ありはしないでしょうか。


 (近代主義の状況・・・) 
 本は文化の基礎ですから、本がそうなったということは、知性だけでなく感覚まで迷わされるということになり、文化全体の雰囲気が落ち着きのないものになります。世界的な近代主義の思潮に丸ごと飲み込まれて今まで、今なお、私たち日本人は本当の自分達の出処・帰趨、アイデンティティーというものを決めかねて、ただ迷っているのではないでしょうか。
 日本の近代化路線というのは、人間解放、デモクラシーの実現という標語の下に、政治・経済・思想・諸学問を挙げて賑やかに展開されるけれども、西洋生まれの近代主義の思想というものは、実は根本的に困った思想だったのです。つまりそれは、科学的方法というもので総てを解明して行こうという思想ですが、それできっぱり人間が解るとか社会がよくなるというものでないばかりか、謎に満ち矛盾に満ちた人間存在というものを、簡単に解るくらいに切り詰めて、命や存在への畏敬の念というものを忘れ去らせようとする思想だったからです。人間を欲望充足のためにただ生存競争をしている動物とくらいに見るか、何処までも進歩発展して、神様にまで到達出来るかも知れないと夢想するような、短絡した考えで人間を纏めようとしたのです。しかし人間は決してそんな考えには収まらないから、世界の全体の状況はますます混乱して行きました。日本の軍国主義がそうでしたが、ドイツのナチス、ソヴィエトの共産主義、そこから米ソ対立などを経て、経済の国際化から生み出された巨大企業や多国籍企業は、地球規模の開発を促進して、とうとうぎりぎりの今日の環境破壊にまで来ました。
 そういう過程で次々出されて来る理論や学問というのは、批判も反批判も賑やかではあるけれども、そういう理論そのものが皆な商品としてマーケットの規制を受け、現実の後追いをするようなものしか出なくなりました。
 ポストモダンとか言ったり、近代主義の考え方を超えねばならないという課題は感じられていて、色々の試みや新しい理論も生み出されては来ますが、しかし、近代主義的デモクラシーに代わるもっと深い人間理解というものは、まだ何一つ出て来てはいないと言わざるを得ないのです。その限り近代主義はまだまだ当分続きそうです。デモクラシーという考え方や制度は、元々が西洋的なものであり、それに基づけばただ困ったバラバラの孤立した人間を生み出すだけで、人間至上主義の倨傲を野放しにするしかないということは、今や全く明らかと思いますが、それなのにデモクラシー以外にはまだ私たちの拠るべき思想、頼るべき方法が他にはないという状況があります。今もまだ大抵の人がデモクラシーでなければならない、民主主義はいいことだと考えているでしょうけれども、どうも単にそう思っているだけでは済まない、厳しい時代になりつつあります。本当の人間の豊かさ、平和、生き甲斐、安心というのはどこにあるのか。デモクラシーでそれが本当に求められるのかどうか。その辺に現代の最も奥深い問題が横たわっているように思います。


 (西洋の世界侵略・・・)
 西洋の思想というのは、確かにいいところも沢山あり、何事につけても積極的で意欲的ですが、しかしそれだけにまた、根本的にはアジア的・日本的な感覚より、よほど厚かましい性格があります。今のイラク支配を図るアメリカのブッシュをみればよく分かると思いますが、世界侵略の本家はもともと西洋であって、アメリカという国もヨーロッパ人の侵略で作られた国ですね。土着の先住民・インディアンを殲滅して打ち立てられた国です。コロンブスのアメリカ大陸発見の後、ヨーロッパ人があの辺りに出かけて、どんな凄惨な侵略のやり方をして行ったか、そのやり口といい規模といい、その無感覚な厚かましさは、殆ど想像を絶するものがあります。戦争だったら、どうしても殺し合いをするわけだから、行為は残虐となるでしょう。日本も中国・朝鮮・東南アジアで残酷なことをしたと思う。しかしコロンブスの当時から、西洋が未開地の原住民を殲滅して行ったのは、戦争でも何でもない。武器も持たぬ無抵抗のインディオを片っ端虐殺し、土地ぐるみ、ありとあるものを略奪しているんですね。その徹底振り、その規模は身の毛もよだつ恐ろしさです。


 (スペインの事例・・・)
 細かいことに触れる余裕はありませんので略しますが、例えば始めに、コロンブスを派遣したのはスペインですが、だからその後スペイン人がアメリカの周辺、いわゆる西インド諸島からカリブ海・南米大陸にかけて全面的に侵略して行きます。その模様、原住民の虐殺、略奪がどんなに酷いものだったかは、その一部は岩波文庫に「インディアスの破壊についての簡潔な報告」(ラス・カサス著、染田秀藤訳)という本があります。今も出ている筈ですからすぐに読もうと思えば読めると思います。その本は、外地のキリスト教化のために侵略の一行に同行した宣教師が、余りの現地の残虐さを見るに見かねてスペイン王室に実情を報告したという形を採っています。そういう報告の残された限りで辛うじての断片を私たちは知るだけですから、何の記録も証拠も残されず、闇から闇に抹殺されて行った悲劇がどのくらいあったかは、想像も出来ないほどと思われます。更に南米大陸の奥深く、アンデス山脈に栄えたと言われるインカ帝国もスペイン人に滅ばされましたが、インカとはどんな国だったのか、その詳細は今ではすっかり分からなくされてしまったというのが実情です。そうやってスペインはあの辺りを手中に収めた。だから今では南米・カリブ海周辺はスペイン語圏ですね。原住民の原語は原住民と共に民族ジェノサイドに遭い、歴史から抹殺されてしまっています。スペインだけではない、イギリス、フランスなどの当時のヨーロッパ列強が比々皆然りという状況で、競争してキリスト教と鉄砲を携えて世界中の分割支配に乗り出して行ったのです。
 

 (デモクラシーの構造・・・)
 西洋のデモクラシーと科学技術至上主義、資本主義、国際主義が普遍化して行った背景には、そうした残虐な歴史が付き纏っています。それを推進した考え方は、意欲と開発意識に富んだ飽くなき人間主体主義、進歩主義というものであっただろうと思います。その上で謳われて来たのが個人主義、自由主義、民主主義といった価値観であり、やがて人間や社会の関係の総てを金銭取引に還元して、資本主義・商品経済を推し進めるものでありました。人間解放と言っても、それは金持ちか一定の階級に属する個人の自由ということです。力のない大多数の貧民はこぎ使われるだけで、デモクラシーの建て前上、福祉などという宥和政策が施され、体制の安定化のために飼い慣らされる。そういう政策が近代のデモクラシーを支える構造でした。今のアメリカが、そういうヨーロッパ的発展主義の、嫡出子であるという感じです。


 (アメリカ化・・・)
 太平洋戦争に負けてからは、日本はアメリカ一辺倒になりました。それまでの西洋化は、イギリス、フランス、ドイツ、その他といったヨーロッパの文化を、凸凹はありましたけれども、色々に取り入れようとしていましたが、アメリカンデモクラシーで経済発展を図る、ハイテク立国をして世界に伍すると考えるようになって、明治以来の西洋化の運動は、太平洋戦争の敗北以来は、殆ど単にアメリカ化一色です。小泉内閣の自衛隊イラク派遣を見れば分かります。日本は本当にあの太平洋戦争で、アメリカに負けたのだと思います。精神が負けた。今も負けているのです。
 その結果、固有の伝統文化は日陰者、二義的なものとなり、魂を養っていたはずの私たちの神聖な言葉は、単なるコミュニケーションの記号とされてしまいました。だから本も単なる功利的な知識の需給という点でのみ流行り、読み捨て、使い捨ての消費物となりました。現代は知識という知識もすべて単なる商品であります。言葉を含め文化の一切が商品とされて流通させられます。一昔前も「地獄の沙汰も金次第」なんて言われていましたが、いよいよお金が総てとなったと思います。


 (人間本性の声・・・) 
 いわゆる個人の自由というか、各自の幸せを追求しようとしたらそれは結局、幸せをお金でどう買うか、他人に明らさまな迷惑をかけない限りで、自分の欲求・欲望をどう満たすかということになりがちです。大体の人がそう考えるような時代になりました。しかしそういう現代の状況は、いわば人間というものの表層の半面しか見ていない、人間の能力の半分しか機能していないということで、恐ろしく半端な時代の、半端な価値観だと言わねばなりません。何故なら、例えば人間同士の信頼とか友情とか愛とか、真実とか、決してお金に換算出来ない価値というものがあり、そこに人として生きることの根本的な喜びや意味が掛かって来るというのが、人間の根源的な能力であり生きているということの証だからです。
 そういう人間にとって絶対大切な第一の価値が、第一の価値として自然に十分に働かない、実現して来ない社会というのは、人間の自然な姿でないばかりか、決してあってはならない社会のはずです。また私達がいわゆる現代的なものの見方に馴染んで、仮に人間とは所詮欲望存在であり、ひたすらその充足を求めるものだと考えるとしても、その欲望というのは、決して単に表層の快楽や目先の利害だけに明け暮れて満たされるものではない。必ずもっと深いところで、意識的・無意識的に生きる意味とか、手応えというものの確保を欲しているということが、突き上がって来ないでしょうか。それはいわば人間の本性から洩れてくる命の声であります。自分では特別の自覚はなくとも、人間とはそんな風に出来ております。だから、人間にとって単に孤独というのは、淋しい哀しいこととなるのです。

 一昔前、言葉を大事にし、だから本も大事に読み、人間共同の愛や信頼感を養おうとされて来たのも、確かにそういう人間の深い本性に即して、道を間違わぬように歩こうということであったと思います。人が本当に生き生き生きるためには、自分独りの欲望を満たすなんてことだけでは人間は決して充足なんか出来ない。人のために働く、人との共同の信頼関係を築く、そういうことがあって、人の喜びと自分の喜びが一つとなるところで、初めて本当の自分自身の生きる喜びというものも立ち上がって来るのだからです。


 (自分自身を見失わないために・・・) 
 しかしそれにも拘らず、昔から立派そうな書物が沢山ありはしたが、書物の中の言葉も、次第に信頼感の薄れて行くような、功利的な言葉が多くなり、言葉を大事にするとしながら、言葉への誇りはすっかり喪失されたように見える。本というものが、時代の状況にただ歩調を合わせるだけで、今なお立派そうな書物の内容は、大抵が相も変らぬ西洋的・近代的価値観を振り撒くということ以上のことはないのではないか。結局は、本を読めば読むほど、読者はそういう本に騙されるということになるのではないか。
 いずれにしても本というものが昔の魅力を失った。無論それぞれの内容はそれぞれのよさや魅力を秘めているとしても、本に頼って自分の人生を決める、なんてことは出来そうもない。昔から大事だ大事だと言われた本とは、一体何だったのだろう。それで何でこんな無惨な歴史が展開し、どうして人生の根っこのこの寂しさや空しさが少しも癒されないのだろう。
 無意識の内にもそういう疑念が何処かに起り漠然とこみ上げて、若者達は父祖たち、親たちの世代の価値観に、すぐには付いては行けない哀しさや悩みを抱えているのではないでしょうか。
 皆さんはどうでしょうか。

 すると、古い道徳や価値観が壊れてしまったことをただ嘆いてばかりはいられない。かつて中国の革命の時に「造反有理」なんてことが言われたことがありますが、造反有理かも知れない。盥と一緒に赤児まで流してしまいそうな危うさは日々ありますけれども、古めかしい本の権威など、誰も信じられなくなっているということには、必ずしも若い人たちの無定見や無軌道を責めるだけでは追いつかない。人間の知性というものの限界というか、これまでのデモクラシーとか自由主義とかいう価値観や、哲学や宗教、科学といった学問的営為、文系・理系を問わず営まれる知的営為というものに、何か根本的な隘路、問題がないかどうか。本当に人間が皆なして生き生き生きるための、何か重大なファクター・必須要素をどこかで忘却している、取り違えている、そういうことがないかどうか。本当にこれでいいのか。そういうことを感じさせられるのではないかと思います。

 こういう時代に私たちは生きております。明日への希望があるのかないのか、まだよく分からないところがありますが、何処にも羅針盤がなさそうな現代、こんなことを考えてみるのは、面白くないばかりか哀しかったり嫌だったりしますけれども、お互いに自分自身というものを見失わないために、嫌でも見ておかねばならないこともある。とりあえずは、そういうことを申し上げてみたかっただけであります。
 終わります。