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対馬の誇り

2007年4月28日

(第三回福岡・対馬高校同窓会記念講演  06年4月16日)

      対 馬 の 誇 り

       または「私の誇りとしての対馬」
                                  村上一朗

  (1)誇りの喪失
 村上です。
 口は禍の元、と申しますがまことにその通りでして、この春の役員会で、つい詰まらぬことを口走ったばかりに、お前、それをしゃべれと皆なに強要されまして、不承不承ここに今立たされました。別に大したことは何一つお話できる用意もありません。私は単に小さな出版社を営んでいるだけの平凡な人間でして、人様のお話を聞いたり、肝胆相照らして親しい者同士で楽しく会話をしたりするのは大好きですが、こうして人様の前に立って自分が一方的にお話しするというような、講演などということは苦手、というより大嫌いなんです。
 人間、見世物になるより見る方が好いと思うわけで、人様の前に立つというのはどうも好きになれません。「好きこそものの上手なれ」と言いますから、嫌いで上手く行くわけがないと思います。お聞き苦しいだろうと思いますがご勘弁下さい。
 それでも立った以上、何かしゃべらねばなりませんが、役員会で僕が口を滑らせたというのは、要するに「僕らはもっと対馬に誇りを持とうよ」と言いたかっただけであります。
 何も皆な何時も小さくなっているわけではないけれども、今、日本全体が、日本人が、誇りを失いかけている、もう大分失ってしまった、そういう状況を感じるものですから、そんな風潮に自分も持って行かれたり、対馬がまるごとそんな風潮に流されるのは嫌だと思いまして、まず僕ら自身が自分自身の誇りの在り処を確かめ、確固たる誇りを持ちたいものだ、そういう思いでありました。

 「誇り」というのは、一つ間違うと「驕り」になりますですね。独りよがりの唯我独尊になっては元も子もありません。だから、気をつけねばならない問題はあります。自らを誇るというので現代流の「ジコチュウ」になって、他人の気持ちも分からなくなるというのは、誇りでも何でもない、むしろ誇りとは正反対の、いじましい姿になります。

 明治以降、日本は西洋の文物を取り入れながら国力増進を図って、日本人の誇りというものに、例えば神国とか大和魂とかという言葉を短絡的に宛がって、戦前一時、「誇り」と「驕り」の区別がつかなくなった。その結果が大東亜戦争の無残な敗北だったと言えるかも知れません。
 その反省はすべきでしょうし、大和魂の実質とはどんなことだろうということももっと深く考えねばならないと思います。それはそうなのですが、しかし近代の日本には、西洋直輸入の思想や技術を過大評価して、それに頼り過ぎた、いわゆる西洋かぶれの指導者、インテリや経済家、為政者ですが、戦前からそういう人が少なくありませんでした。いわゆるリベラリズムとか進歩主義と呼ばれる潮流、つまり近代主義の思想・ものの見方・考え方です。
 それで太平洋戦争に負けてアメリカの配下に組み込まれますと一気に、日本は平和憲法と民主主義の旗印の許、私たち自身もが西洋的な価値観やアメリカ的な実利主義で教育を受け、己が身を養うようになって来たと言えるかと思います。

 近代主義的なそういう見方からすれば、天皇や神国日本などという言葉・イメージは、ロマンチシズムの幻想だなんていう生易しい批判ではなく、「大和魂なんて言葉を担いで、あんな戦争を惹き起こしたんだ」、だから、それは唾棄すべき封建的日本人の弱点だということになり、盥の水と一緒に赤児までと言いますか、この国の伝統的な特有の文化の美質というものを根こそぎ、例えば東大や京大の学問が率先して、打ち壊そうとして来ただろうと思います。
 ジャーナリズムで持ち上げられたりした思想家とか弁論家は大抵そうでした。私は高校生の頃から岩波書店発行の「世界」という雑誌をとっておりまして、その雑誌で漢字を覚えたりさせられて来たのですが、雑誌「世界」の主要な論客がそうでした。
 例えば歴史的・日本的な思想というものの研究に没頭して、それをもっと新しい思想に組み替えたいとするような、有名な『日本政治思想史研究』という名著の誉れ高い本を著した丸山真男とか、マックス・ウェバー研究の大家・大塚久雄とか、マルクス主義の向坂逸郎、キリスト教の矢内原忠雄、法社会学の川島武宜とか、日本を代表するようないわば錚々たる学者たちが比々皆然りといった論法で、旧来の日本の伝統を打ち破らずばやまずと、それぞれ営々と学問に励んでいたのです。
 現代、今も、質的には殆ど変らないと思います。文化庁長官の河合隼雄さんなどは、日本の公用語を英語にせよと言ったりしています。それで小学校からの英語教育が今実際に、具体的に日程に上って来ましたですね。英語教育がすぐ悪いとは言いませんが、日本語教育はどうなるんだと言いたいと思います。

 個人主義、自由主義から始まって国際化だのグローバーリズムだのということが流行らされたその結果、僕らは今どんな歴史の状況に置かれていると考えられるでしょうか。いよいよ僕らは明日の道標を見失わされるばかりか、村といわず町といわず、国中の人間がばらばらの烏合の衆とされ、一人一人が何を誇りとして生きられるのか、誰にも分からなくなって来た。ただそれだけのことだった、と思われてなりません。

 古来から受け継がされて来たと思われる、私たちの生存・生き方に関わる、日本人としての素朴で純真な誇りというものが希薄になるということは、それに代わる、それとは別の何か、例えばお金とか地位とか知識、だからグレイドとかパフォーマンスとかに誇りを感じるようになるということです。人は人として、たとえ歪んだり間違ったりしているものであっても、大なり小なりともかくも何か自分の内に誇りというものを抱かずには、ものを見、ものを思いつつ人として生きるということは出来ない存在だと思います。ですから、その人がどんな人かということは、基本的に何を、どんなことを誇りとして生きている人か、ということで分かれて来るだろうと思われます。

 西洋的な価値観によって日本の伝統を潰そうとしたがるような学者や為政者は、やはり西洋の文化を自分はよく知悉しているのだとか、語学が出来るとか、その価値観に自らの誇りを置いているでしょう。それがどのくらい傲慢な「驕り」であるかということには気づきようもなく、です。
 だっていたずらに進歩主義を奉ずれば、伝統的な古来日本人の美質において生きようとする人々の、その誇りの在り処ということについては殆ど何の忖度も出来なくなるだろうからです。

 しかし、私が対馬というところを思う時、対馬の長い歴史が養い、対馬の風土に胚胎されて来た島民の誇りというものは、どのくらい現代の歪んだ「驕り」のような誇りとは無縁の、素敵なものだったか、ということに気づかされます。ことさらに「我が誇り」などということを自覚に上せたりするのではなく、しかし決して譲れない自己というものを、慎ましく且つ自由に貫く。そういう気質を僕は対馬の人に感じるんですが、そこには今次第に日本人から失われつつある日本的な感性の、生まれ在所の共同体の景観に結びつく独特の主体意識の原質のような、熱さと冷静さを伴った、大らかな精神が生きていると思います。
 例えば、先ずはどなたもご存知の陶山訥庵(すやまとつあん)先生が一つの見本です。
 対馬の皆様を前にして、私などが対馬のことをしゃべるなんて、少々おこがましいんですが、お許し頂いてちょっとおさらいをしておきたいと思います。


  (2)陶山訥庵と雨森芳洲
 陶山訥庵は、いわゆる「殲猪」、対馬の猪狩りのことが一口話で伝わっておりますが、それは若い日から専ら対馬の農政への関心を深めていた訥庵が、郡奉行となってからの事業ですね。訥庵は「対馬足食」、つまり自給自足出来る対馬の国づくりということを真剣に考えていた人であります。だから朝鮮からの輸入米は生涯口にしなかったと言われています。11歳の時に木下順庵の門に入ったといいますから、当初は朱子学・学問を志していたのですが、ずっと後に同じく順庵門に入ります新井白石とは同い歳です。順庵門600人ほどの中、室鳩巣と並んで訥庵は木門の賢人と言われました。その後奈良や京都にも遊学し、天和2年の朝鮮通信使には雨森芳洲らと一緒に付き添い江戸に上っています。農政に関するものを中心に著作が多数あるなか、その「津島紀略」はその後の「島史」の基礎となった著作であります。

 宗氏治世下での対州藩の善政の一つに、子供が生まれたら麦を支給するという「生子(うまれご)麦(むぎ)」という制度がありましたが、貧民救済策として「窮民屋」の設置ということもありました。訥庵の建議ですね。今日いうところの福祉政策の先蹤です。その農政への努力とあいまって、日本全国どこにも必ずいた乞食というものが対馬には見られなくなっただけでなく、西日本に多くの死者を出した享保の大飢饉にも対馬は全く安泰であったと言われています。

 今、小泉内閣で中国や韓国との関係がギクシャクしていまして、韓国とは昨年来、例の島根県の「竹島の日条例」が引き金となった「竹島問題」というのがありますね。実は訥庵の時代にも竹島問題が起こっています。その時は実際には今の竹島ではなく、もっと朝鮮に近い欝陵島のことだったようですが、そういう外交問題を朝鮮に出向いて解決させたのも訥庵さんでした。
 もう一つ、界川事件の解決というのもあります。田代、(田代という地名は多く、全国に50箇所以上もありますが)対馬領の肥前田代で、久留米藩との境界争いが起こった時、訥庵が出て行って話をつけたという事跡があります。
 訥庵がその任に当たるということを、筑前黒田藩の儒学者・貝原益軒さんが聞きつけて、あの『養生訓』の益軒は会長の佐伯先生のお身内に当たりますが、その益軒が、訥庵が来るのなら「対州之勝に必可成」と予言したと言われています。

 竹島に絡んでは去年は韓国で、「対馬」も韓国領だと主張されたりしていることがニュースで流れましたですね。歴史上これも初めてのことではなく、戦後韓国の李承晩大統領というのがいましたが、海峡に李ラインというのを引いた李承晩も、対馬を韓国に併合したいと言っていたんですね。しかしもっと根は深いかも知れません。

 応永の外冦と言いますから15世紀、いわゆる倭寇が大挙して朝鮮を襲ったと言い、その報復とて朝鮮軍がまた大挙して対馬を襲うということがありました。1419(応永26)年、6月19日、これは僕の誕生日と同じなんですが、朝鮮軍は227隻・17、285人の大軍をもって押し寄せ、浅茅湾に入り、対馬の船129隻、民家1、939戸を焼き討ち、114人を殺害、21人を生け捕りにした、というような記録があるそうです。
 対馬もいわゆる倭寇の根拠地でしたから、結構悪いことはしていたんだと思いますが、その戦闘の直後、朝鮮では「対馬は慶尚道に属する、朝鮮領内の土地である」ということが言われていたようであります。

 倭寇といえば、何だか海賊をやっていたのが対馬や日本人ばかりという先入観を持たされますが、そんなことはないのです。奈良・平安時代から新羅の海賊が頻繁に日本に押し寄せていた、ということがあります。歴史の実態としては、倭寇と呼ばれていても「倭寇のうち十中八九は中国人だということを、中国人自ら認めております。」(田中健夫「海と列島文化3」月報3・小学館)と、田中健夫という方はおっしゃっています。

 古代史の森浩一先生は、「戦後の古代史、中世史の教科書では、日本の海岸の人たちが、いかに外国の海賊に襲われていたかということを、一行も書いていない。・・・古代史の人は、もっと、新羅の海賊の実態を研究する必要がある。」(「海と列島文化3」月報3・小学館)と言われています。
 どこか偏った半端な歴史の取り上げ方というのは現代、太平洋戦争の評価を巡っても然りで、お互いが史実をご都合主義の色眼鏡で見てしまうという悲しい隘路は、なかなか越えられそうもありません。それは、一つは、基本的な人間観や価値観の半端さから来る歴史観の歪み、更に歴史学という学問そのものの貧困というか、まだまだ分かられていない事実が多すぎるということがあると思います。

 下っては訥庵、雨森芳洲の時代に至り、享保4(1719)年の朝鮮通信使でやって来た製述官・書記官ですが、申維翰(シンユハン)という人は、その『海游録・朝鮮通信使の日本紀行』という報告書の中で、府中・厳原で雨森芳洲と激論を交わした時、「この島中は朝鮮の一州県にすぎない。・・・・」と言っているんですね。それに対して芳洲は、それは「我を侮るものではないか」と応酬しています。

 そんな竹島問題や対馬の帰属問題がありますが、しかし対馬が一度だって朝鮮に属したことはない。「縄文時代・7000年前から交流は始まっている」と、永留久恵先生は言われています(「対馬の考古学」海と列島文化3・玄界灘の島々所収・小学館)が、最古の縄文遺跡を含め、魏志倭人伝の「始めて一海を度(わた)る千余里、對馬國に至る。」という古代から、対馬は紛れもなく日本でした。日本の中の日本、何処の地方よりも純然とした日本であったと思います。
 なぜなら、隣国と近く、交流もあるということは、それだけ一層隣国との違いが自覚され、隣国のこともよく分かるが、隣国に対する確固たる自己の態度の確立・スタンスということも自ずから要請される、ということがあるからです。そうでなければ一切の関係が滅茶苦茶になるはずなんです。

 徳川幕府が朝鮮通信使招聘などの朝鮮との外交は一切対馬に任せ、幕府には本当のことは殆ど掴めないから、結局万事対馬の言いなりになったというのも、対馬にはそれだけの歴史があったからだったと思います。
 対馬と朝鮮は距離的に近いから、対馬の人間も朝鮮人に近いところがあるかも知れないなどと考えるような短見は、民族とか人間というものそのものを見る視点を欠いた、単にユニバーサルなだけの近代主義の歴史観です。交流ということがすぐ同化ということを伴うものではないのに、近代の歴史家はともすればそんな風に見たがります。
 現代、グローバル化が唱えられ浸透すればするほど、世界中に民族主義のような運動や反動が起こるのも同様の事情が胚胎しているからだと私には思えます。

 訥庵が猪狩りを企画したのは、ちょうど将軍綱吉の時代で「生類憐れみの令」というものが出された時です。だから訥庵の構想はいわばお上の命令、時代の中枢の方針に逆行しています。現代でもいくら地方自治といっても、地方が政府の方針とまるっきり反対のことはやれない、企図しても潰されてしまうのが落ちですね。数日前にも、米軍基地移転問題で当の沖縄県が無視されてというか、裏切られて政府に押し切られてしまいましたですね。それが権力というものでしょうか、大所高所の立場で采配すると言えば聞こえはいいが、とんでもない理屈でも下々は従わされるのです。あの時代です、猪狩を推進するには訥庵には恐らく、一つ間違えばお咎めを受け死罪になることの覚悟もあっただろうと想像されます。

 つまり対馬島民の自給自足の暮らしの確立のため、訥庵は自分の命を張るだけの誇りを持って立ち向かったと言えるように思います。その時訥庵は郡奉行ですから対馬藩では一等偉かった。全島民を動かすだけの権力を持っていたわけで、そこで実行された事業ですね。
 それが見事に成功して、咎めがあるどころか褒められて、少しはいい気になるようなところがあっても不思議ではなさそうですが、訥庵にはそれが全くない。晩年にはかえって「自警歌」というのを作っています。

「人をねたみ身を誇るこそいやしけれ身のため人のためはおもはで」
「ねたみほこるゆえはたかきを好むなりたかきを好みいやしくぞなる」
「なき罪をありといひけるそしりをもききすてにせずかねてつつしめ」
「われを知らず人を知るべき道ぞなき人を知るにはまづわれを知れ」

 決して歌としては上出来ではありませんが、自警歌ですからそれでいいんです。身のため人のためだけを思う、高きを好むと人は卑しくなるぞ、或いは、たとえいわれなき他人の謗りでも自分の戒めとする、まず自分自身というものを知れ。
 言葉は短直・素朴でありますけれども、古来哲学・倫理の核心というのはそういう態度、方法に尽きると言って過言ではありません。西洋ギリシャ哲学のアルファーにしてオメガーというのも「汝自身を知れ」であります。仏教だって同じことを言っています。それを言うだけでなく実践して、自由奔放でもあるが慎ましい暮らし振りを島民と共に作ろうとした訥庵に、僕らは真に人間的に生きるということの、誇りの係りどころを見る思いが致します。

 雨森芳洲も訥庵同様、立派な方だったと思います。二人は仲もよかったですが、対馬に一番活気があった時代の俊英だと言えます。朱子学・木下順庵の許で勉強していた若き芳洲を宗・対馬藩は招聘したんですね。後にまた同門の松浦霞沼も迎えられていますが、朝鮮通信使外交に当時第一級の知性が必要だったからです。芳洲はいわば禄を与えて貰ってからも暫くまだ江戸に留まって遊ばせて貰っています。対馬藩には余裕というものもありました。余裕というのは単に経済的なものだけではありません。精神に余裕がなければ経済的余裕も生かすことは出来ないはずであります。

 対馬藩はずっと朝鮮を主体に交易をしているわけですけれども、山本博文『対馬藩江戸家老』という本によれば、当時対馬藩が上げた交易の利益は多い時で十万両、それは「知行の石高に換算すると二十万石にのぼる」と言います。絹・白糸の輸入量は、明やオランダとの貿易を一手に専有していた長崎貿易の二倍にもなり、それらは京都三条にあった対馬藩の藩邸で売りさばかれ、京都の西陣織の主要原料となったのでした。当時、決して対馬は貧しい国などではありませんでした。
 この山本さんの『対馬藩江戸家老』は東京大学史料編纂所が持って行った対馬の「宗氏史料」を読み解き、対馬藩江戸家老・平田直右衛門真賢(ひらたなおえもんさねかた)の奮闘振りを中心に、朝鮮通信使招聘に関わる幕府と対馬藩の交渉過程が仔細に描かれています。通信使や対馬藩の実態、その内容もよく分かると本と思います。

 芳洲は訥庵の10歳ほど歳下です。帝塚山学院大学教授の上垣外(かみがいと)憲一さんはその著『雨森芳洲』の「まえがき」で「閉鎖的と思われている徳川時代に、こんなにも民族的偏見から自由で、こんなにもひろやかな国際的精神を身につけた日本人がいたということを我々は決して忘れるべきではないと思う。」と書いておられますが、国際人であると共に、やはり徹底的に日本・対馬を愛した日本人であったと思います。

 色々面白い話もありそうですが、対馬の永留久恵先生のご著書『雨森芳洲』も出ていますから、詳細はそれらの本に譲りたいと思います。
 一つだけ、上垣外さんがその著書『雨森芳洲』の中で触れられている一節をご紹介しておきましょうか。芳洲の「橘窓茶話」という漢文で書かれた本の内容でこんな話です。

 「ここに一人の儒者が『小学』(小学・大学の小学で朱子学のテキストです。)を講じ、孝悌の道を説いている。(つまり道徳を説いている)そこに空から花が乱れ降り、一人の禿(かむろ)(禿頭というのじゃなくて、いわゆる遊女の小間使いの少女のこと)が、進み寄って『天女のお招きであなたを迎えに来ました』と言う。そこで『私はいま講義をしているんだ。女なんぞに用はない』などと口をとがらせ怒って言う儒者がいたら、それは学問の蠢賊(しゅんぞく)(敵)である。」というような一節です。

 恰好をつけて、女・子供・色気なんてことを馬鹿にするような学者がいたら、そんな人は学問の敵だというのです。なかなか味のある一節です。
 それで上垣外さんは続けてこう記されています。
 「芳洲は決して謹厳一方の儒者ではなかった。天理と人欲を対立的に見て、人間の欲情をすべてなくすことが道徳である、朱子の教えである、といったリゴリズムにはおちいらなかった。そうした彼の人間理解のひろやかさ、あたたかさが、芳洲の学問にはいつも底流している。」
 雨森芳洲は新井白石と論争して対立したりしますが、学校の教科書などでは新井白石の方だけが取り上げられて有名ですけれども、僕は芳洲の方が好きですし白石などより数段上だと思っています。


  (3)司馬遼太郎と宮本常一
 対馬がどんな島か、これを概観・鳥瞰しようといたしますと、司馬遼太郎さんの「街道をゆく」壱岐・対馬の道は、つとに皆様もご承知と思いますが、恰好の本です。並外れた該博な知見を駆使して、いかにも気持ちよく読める、優れた対馬の歴史の手引書ともなっています。
 ただ、僕は司馬さんには多少不満があります。それは大局的なところからの俯瞰としてはそれでいいのですが、この本には対馬の住民の暮らし振りや息遣いは殆ど全く出て来ないんですね。ですから陶山訥庵も出て来ません。対馬の歴史といっても首から上の公式記録だけに頼った、それもとても大事なことですけれども、図式的な国境の島というイメージに終始しています。
 壱岐と対馬の比較で、壱岐の人は、「対馬は貧しかですたい。貧しかなら貧しかごとやればよかばってん、厳原はあんな小さな町なのにバーが七、八十軒もあるとですよ。」と言う。それは「痛快というほかない。」と、さすがに司馬さんは分かるところがあるから書いていますが、対馬の人は今度は「壱州の人は・・・ずるかですよ」と言う。
 その違いを司馬さんは、「壱岐は農業国なのだ」と思って、自分を納得させようとしています。対馬は農地のない山ばかりの国なので海に出て暮らしを立てる外ないとして、壱岐と対馬は、慎ましい農村文化と荒くたい漁村文化の違いとして対置させられています。
 壱岐と対馬の地形の、平野と山との違いも無論あるわけですが、そこから来る住民の気質の違いを、乗ったタクシーの運転手の違いに極端に出ているようにも書いてあります。「壱岐の車はみなよかったですなぁ」しかし厳原の車はどれも「無愛想」と「暴走」で運転手は自分たちを「人間としては遇さなかった。」と。
 お話としてはそれはそれで面白いのですが、そこから何が掴めるかと思いますと、何にもないんです。農村は繊細だが漁村は威勢よく荒くたい仕事をしなければならず、敬語なども使ってられないだろう。日本では「紀州の海岸端と泉州にだけはその方言に敬語がないが」、とも司馬さんは書いていますが僕は疑問です。子供の頃ちょっと紀州の南端、那智勝浦に住んでいたことがあるのですが、例えば対馬で「おっさまがねし、こう言わはってねし・・・」というようなトーンと同じように「村上さんのっし・・・・あんのっし・・・」というような言い方をしていました。「おっさまがねし、」というのは丁寧語・敬語ではないでしょうか。

 先ごろ亡くなった網野善彦さんという、神奈川大学で日本中世史をやっておられた優れた歴史家がありますが、その網野さんにこんな述懐があります。
 「例えば『百姓』を『農民』と同義と考え、『村』というと『農村』と見る思いこみの誤りは明白、といまは考えているが、二十年前には中世まではともかく、近世になれば『百姓』は農民を意味すると、私も思いこんでいた。」(『中世再考・列島の地域と社会』網野善彦・講談社学術文庫)
 百姓が即農民ではなかった、全然違った、と言うのであります。
 日本史の専門家がそういう状況ですから、司馬さんでなくとも僕らも、農村と漁村との違いを図式的に捉えてしまうのは無理もない話ですが、対馬の暮らしを虚心にじっと考えて見ればすぐ分かることです。実態は大抵みんな半農半漁ではないでしょうか。たとえ銘々は畑だけ、漁だけ、と分担していても、少なくとも一家一族の中、村全体、相互乗り入れの地域全体はどこも複合的です。
 何ごとも図式的に整理すると分かりやすくなるように思われますが、それは実態から離れますから、そこから出発してものを観察したり色々の考えを引っ張りますと、とんでもない結論が待っているということになりがちです。
 そういうことを網野さんは、能登半島の先端・奥能登にある時国家という家に残っていた古文書の解読を通して、例えば水飲み百姓と呼ばれた田地を持たぬ民が実は大金持ちであることが多いとか、山や海の開発や交易で諸文化の展開が見られることなどを詳細に検証しておられます。
 網野さんの史学は、時に日本の「瑞穂の国」幻想や神話を解体すべきだとして、ちょっと性急に論を運ばれるようなきらいも見られますが、しかし文部省の公式日本史の体系の欺瞞を破る諸々の歴史的事実を、一つづつ潰しながら「日本史」を事実に即して書き直さねばならぬとされているところは非常に面白いです。

 それはともかく、司馬さんの「街道をゆく」を補うものと言ってもいいものに、もう一方、宮本常一さんの『対馬漁業史』があります。これは生な材料を扱った着実な対馬のレポートです。『漁業史』は同じ「宮本常一著作集」第20巻の『海の民』と合わせて一つの仕事で、それでも全体は未完ですが、ほぼ全島の村落の実態調査を古文書の解読を含めてやった後、その実地調査と学問的な方法意識の許にまとめられた貴重な資料です。
 昭和25年から26年にかけて、いわゆる八学会(日本民族学協会、日本人類学会、考古学会、民俗学会、社会学会、言語学会、地理学会、宗教学会)と26年には日本心理学会が加わって九学会の全島調査が行われ、半世紀前に出たきりの『新対馬島史』はそれに基づいて出されたと思いますが、その時の宮本さんの調査の全容です。
 生前には陽の目を見ずに、もう二十年あまりにはなりますがこの「宮本著作集」の刊行で始めて発表となりました。これは司馬さんのもののように読み物として書かれたものではないので、素人には少し読みにくいところがあるかも知れません。私もまだ詳しくは読み切れておりません。しかしこんな貴重な文献を無視するということはないです。戦後の対馬がどんな状況から出発しているかということが鮮明になるだけでなく、大昔からの島民の暮らしがどんなものだったかということも、他のどんな資料からも得られない実像が感得出来ます。

 宮本さんにはもっと他にも対馬に関する著述がありますが、『忘れられた日本人』の中の「対馬にて」とか浅藻の古老の聞き書き「梶田富五郎翁」というような短い美しい文章は皆様もご承知かと思います。
 「対馬にて」には、伊奈に調査に行った時の「寄りあい」の話が書かれていますが、こんな一節があります。

 「対馬ではどの村にも張箱があり、その中に申し合せ覚えが入っていた。こうして村の伝承に支えられながら自治が成り立っていたのである。」それが村の結束に役立っているが、また「同時に村の前進にはいくつかの障碍を与えていた。」と結ばれます。
 確かに寄り合いをして、全員の合意を待つというようなやり方では現代の時代のテンポに着いて行けない。あるいは村の伝承に基づくと言っても、それは単なる因習に過ぎないかも知れない。だから近代はそういうものを十把一絡げに封建的なものとして断罪し、ひたすら新規開発事業というものばかりを推進しようとして来ました。
 宮本さんが対馬を調査していた頃はまだ戦後の復興期というような時期でしたから、宮本さんの視点にも、遅れをとる田舎というイメージがあったように思います。しかし今、二十一世紀まで来て見ますと、その障碍と言われたものが、どんな障碍だったのかということの、再考察の必要も生まれて来ていると私は思います。つまらない因習と思われたものが、ひょっとして村を解体してしまってばらばらの個人主義の弱肉強食社会に巻き込まれるようなことを、どこかで止めていたかも知れません。それらのことはきっと今後の課題になるだろうと思います。


  (4)夜這いの話など
 対馬の歴史や民俗というものの資料は他にも立派な資料が一杯あります。幕末頃の藩士・中川延良の『楽郊紀聞・対馬夜話』も膨大で奇特な、対馬に関わる聞き書きや記録であります。「楽郊」という号は「対馬は楽園だ」というような意味で、いかに対馬に生まれ育った人が自ら住まうわが対馬に惚れ込んでいるか、ということが感じられます。そして対馬とはこういう人を生み出すような、歴史・文化を大事にした土地柄ではないか、ということを思わせられます。
 『楽郊紀聞』は鈴木棠三という人が編集したものですが、鈴木さんは確か歌野吉甫先生の御家にあった原文を借り出して作ったのではなかったかと思います。昭和50年前後のことと記憶しています。

 また私が作らせて頂いた、日野義彦さんの『対馬拾遺』も、対馬土着の、こよなく島を愛する方でなければ書けない、珠玉の対馬民譚です。「オイザトナー」という挨拶の言葉で一巻が結ばれます。そこの解説に曰く、オイザトナーとは「『目をさますことが早いように』という意味」で、「別れの挨拶に『目を覚ますことが早いように』と声を掛け合う地方が他にあるだろうか。」それは対馬が「刀伊の来寇、元寇の時ばかりではなく、しばしば外国の侵略を受けたかなしい歴史を持つ」から、「物音でもすると、すぐ目を覚まして用心しなさいと云いあった」のだと。

 オイザトナーと言って、そろそろこの辺で私も終らせて頂こうかと思いますが、始めはちょっと夜這いの話にも触れるつもりだったんです。もう時間もないと思いますから簡単に致しますが、僕らの高校生の頃、作家の林房雄や評論家の大宅壮一さんが来島しました。林房雄のことは今度の『対校百年史』に書かせて頂いた思い出話に一言触れましたが、大宅壮一は雑誌「文芸春秋」の取材で来られたと思います。
 厳原の料亭「一力」で町長や対馬新聞の斉藤隼人さんらと大宅さんら一行との交歓会が持たれまして、高校生の僕がどうして呼ばれたのか詳しい経緯はもうすっかり忘れておりますが、その席に僕は侍ったんです。皆なお酒を飲むのに僕だけはお茶でしたが、大宅さんが「夜這いの話を聞きたい」と言われ、主として斉藤さんが何か話されていた記憶があります。大宅さんはどこか物足りなさそうに「夜這いってもっとあっけらかんとしたものではないのか。」というような意味のことを、まるで斉藤さんに抗議するような面持ちで言われていた記憶が残っています。
 僕は高校生ですから、そんな話を聞くさえ恥ずかしい感じで、その時の印象は、ご多聞にもれず夜這いというのはいかにも不潔で下品な田舎の風習だという理解でありました。しかし大宅さんのその時の表情が何だか偉く真面目だったのが印象に残っていて、ずっと気になっていました。後に気づくことでしたが、夜這いの実際というのは、一般にはまるで何も分かられていないし、実際は僕らの印象と全く違うということですね。僕らが見聞きしているような夜這いの風習というのは、すでに堕落をさせられてしまった後の近世の夜這いであるようです。僕らはすでに西洋近代的なキリスト教的倫理観、純潔だとか処女だとかというような観念に汚染されていますから、なかなかにわかには理解が開かれませんが、夜這いは村落共同体の核を形成するような、微妙でもあるがそれだけに奥深い、人間的な習俗だと言える面があように思われます。
 そのヒントとしては、例えば赤松啓介という人の『夜這いの民俗学・夜這いの性愛論』というような本があります。これはなかなかの色話で、助べえ赤松の、柳田民俗学批判をかねた、自己の体験を踏まえたユニークなレポートです。でも、こういうことを無視して綺麗ごとでまとめようとしたら、決して人間というものの歴史や実態をトータルに捉えることは出来ないと思います。
 宮本常一と大宅壮一の夜這いを巡る対談というのもあります。(宮本常一『日本人を考える・歴史・民俗・文化』河出書房・2000円)
 宮本さんと大宅さんの対談は、「『夜這い』こそ最高の結婚教育」という題がつけられています。

 幾つかの本のご紹介ということで私の拙いおしゃべりは終らせて頂きますが、最後に、対馬というのは日本でも稀に見る住民の識字率・文化度の高い国であったということを申し上げておきたいと思います。
 それで、いわゆる対馬藩の藩校の設置というのも、例えば筑前黒田藩などよりも百年も早い17世紀(1685年)であり、子供の教育から始めてそれを「小学校」と名づけていますから、明治5年の太政官の「学事奨励に関する被仰出書((おおせいだされしょ)」に基づく学制の施行で始めて日本に小学校が出来るとして、「小学校」は対馬が本家です。後にまた日新館が出来、やがて僕らの母校の創立に繋がって行くはずですが、対馬の学問への関心とか文化の先進性というのは、決してただ事ではないのであります。
 対馬が日本中の他の雄藩を凌いで、ダントツの中世文書・古文書の宝庫となったというのも、そういう素地・背景があったからであります。
 ちなみに、世界中で最初に国を挙げて子供たちの「小学校」を作り、国家というものが義務教育ということを実施したのは、他でもない日本であります。その中でも対馬は紛れもなく先進地であったと言えると思います。

 ですから、対馬は何も遅れた辺境のいじましい孤島なんかではない。
 対馬は何時から単なる遅れた辺境とされてしまったのか、と思います。恐らく明治維新後の国を挙げての近代化・軍国主義化の過程で自治権も奪われ、一時全島の要塞化も企図されるような中央集権の国策の中で、心ならずも民度も落とされ、沈没させられて来たように思われます。
 しかし、私たちが生まれ、或いは育てられた土地という意味では、対馬はどこまでも、少なくとも僕らにとっては世界の中心ではありませんか。何も威張ることはありませんが、卑下する材料なんて何一つないと思います。胸を張って歩きたい。
 私の思いはそういうことに尽きます。終ります。

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 (講演・参考文献)「対馬」を考えるための手近な文献 

 対馬というのはどんな所なのか。私たちが誰よりも知っているはずの場所・環境なのに実は本当の姿は何も解られていない、ということがあります。それで少しでも知りたいと折々に出る本や資料を手にします。
 以下は私の拙い話でも参照した書物の一部ですが、とりあえずご参考までに、今すぐにでも本屋に行けば手に入る新刊本、ないし現在刊行中のものに限ってご紹介をしておきます。すでにご存じのものや読みやすいポピュラーな本だけですが、しかしいずれも信用の出来る内容の確かなものばかりです。これらの幾つかをご覧になるだけでも、対馬という島が端倪すべからざる凄い歴史と奥行きを持った、内実のある誇らしい故郷であることを実感することが出来ると思います。
 司馬遼太郎の『街道をゆく(13)壱岐・対馬の道』は、最もポピュラーな本の一つでしょう。さすがに該博な知識を駆使して対馬の今昔が鳥瞰されています。まずは私たちの必読の書の一冊と思います。ただしかし司馬さんにして、文献を主体とした予備知識に基づいて一過性の探訪でもって書かれるレポートというものの限界ということを私は感じます。司馬さんは近代的な最も良質のジャーナリストです。ですから善意に満ちてはいますが、やはり対馬そのものの住民の息遣いを見るというより、例えば対馬に朝鮮の臭いがどのくらいあるかといった、大上段に構えた歴史観が一貫しています。それでも宮本常一の『対馬漁業史』と並んでこれ以上の壱岐・対馬に関するレポートは今のところ他にはありません。宮本さんの本は、対馬を愛する人には実に一層必須の書と思います。

 その他以下にご紹介する各論の文献は、いずれも啓発に満ちています。手にとって損ということは一切ない、平易で貴重な資料と思います。

             (*印付きは今春出た新刊本)

  • 『街道をゆく13・壱岐・対馬の道』司馬遼太郎(「朝日文芸文庫」470円・朝日新聞社)
  • *『近世の日本と朝鮮』三宅英利(「講談社学術文庫」1,100円・講談社)
  • 『対馬藩江戸家老・近世日朝外交をささえた人びと』山本博文(「講談社学術文庫」1,000円・講談社)
  • *『壱岐・対馬と松浦半島』佐伯弘次(編)(「街道の日本史49」2,600円・吉川弘文館)
  • 『雨森芳洲・元禄享保の国際人』上垣外憲一(「講談社学術文庫」880円・講談社)
  • 『雨森芳洲』永留久恵(「西日本人物誌14」1,500円・西日本新聞社)
  • 『海游録・朝鮮通信使の日本紀行』申維翰・姜在彦訳注(「東洋文庫252」2,600円・平凡社)
  • 『忘れられた日本人』宮本常一(「岩波文庫」700円・岩波書店)
  • *『「忘れられた日本人」の舞台を旅する・宮本常一の軌跡』木村哲也(1,800円・河出書房新社)
  • 『日本の離島・第1集』宮本常一(「宮本常一著作集4」3,200円・未来社)
  • 『対馬漁業史』宮本常一(「宮本常一著作集28」3,500円・未来社)
  • 『対馬拾遺・国境に生きる人々』日野義彦(2,000円・創言社)
  • 『楽郊紀聞・対馬夜話』1・2、(全2巻)中川延良・鈴木棠三校注(「東洋文庫307・308」各巻1,470円・平凡社)
  • 『夜這いの民俗学・夜這いの性愛論』赤松啓介(「ちくま学芸文庫」1,200円・筑摩書房)
  • 『「日本」とは何か』網野善彦(「日本の歴史00」2,200円・講談社)