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07年春 読書会 報告

2007年5月22日

07年春・5月20日(日)村上宅
 テキスト・滝沢克己『夏目漱石』序文

 輪読を、まず冒頭12ページにわたるその序文から始め、それだけで今回、第一回を終った。
 昭和十八年五月一五日付『夏目漱石』初版の序には、こういう一節がある。
 「刻下大東亜戦争に於ける前線と銃後と、指導者と非指導者と、・・・・が、真実に一となるか否か、換言すれば我々の『聖戦』がその終りを全うするか否かは、一に懸って我々の各々が、・・・・(漱石が生涯をかけ悪戦苦闘したような)生死の問題たる思想の戦場に於いて、如何に闘うかによって定まるといっても、決して過言ではないのである。」
 そして太平洋戦争が終った日本敗戦の翌年の昭和二十一年六月二十五日付「再版の序」では、
 「『聖戦』の夢破れて、すべてを新しく始めなくてはならない今日の若い人々にとって(漱石の苦闘は)必ずや多くの慰めと励ましとを与えずにはおかないであろう。」
 と書かれている。
 時節柄「大東亜戦争」が引き合いに出され戦争に擬えて論が進められている。しかし日本の敗戦・終戦を挟んで「大東亜戦争」の評価は百八十度変るけれども、その点を含めてそれ以上の実際の戦争への立ち入った言及はない。第二次世界大戦の具体的な日本の開戦・敗戦への滝沢克己の関心は、まるで中空的立場で他人事のような淡白さである。
 「聖戦」という言葉が一見無造作に使われている。しかしそれでも全体の格調の高さが崩れることのないのは、戦い、ないし「聖戦」の概念の中身が違うからである。歴史的状況の表層の出来事に振り回されるようなヤワな視点ではない。現実の戦争は、事実もっと切実で根底的な人間の「思想の戦い」の比喩に過ぎないと言えるであろう。
 初版「序」の冒頭はこう書き始められる。
 「夏目漱石は、明治から大正へかけての日本の思想の戦いに於いて、終始その最前線に悪戦苦闘した一人の兵士――或は寧ろ、片時も一兵士、一国民、一人間たる己れを忘れなかった一人の武将――であった。我々は今日、アッツ島・ニューギニアの前線にあると、東京・山口の銃後にあるとに関わりなく、それぞれに我々の肉体の生死の間際にある。・・・・」
 そして全体の趣旨は以下のように収斂している。
 「人間の思想というものがもと我々の自己そのもの、人間存在の窮極の根底に関わる限り、この戦いに於ける前線と銃後の関係は、いわゆる武力戦のそれに比べて、更に直接且つ普遍的である。」・・・・
 「我々の漱石にとって、『自己本位』は即ち絶対に回避すべからざるこの戦いへの決意であり、『則天去私』は即ち幾多の希望と絶望とを繰り返した後、幸いにしてこの敵の最後の砦を陥れ、この敵の首魁を囚虜にし得た勝利の凱歌であった。・・・・」
 根底的思想への方法的視座が一貫している。しかしその根底には極度に微妙な問題が伏在している虞も感じられる。例えば「勝利の凱歌」というような文言は、一見分かりやすい比喩と読めるが、そういう図式で漱石の「則天去私」を総括出来るのかどうか。或いは、人生や思想の苦闘を戦いと捉え、実態的な戦争に擬えて「敵の首魁を囚虜に」するというような比喩が、実際の人間の現実問題を把握する上でどこまで本当に有効なものなのかどうか。
 現実の厳しさを経済戦争とか権力闘争とか呼んで理解することは、現実にそういう競争があるという意味で、普通一般的に何も疑われずに流布している。ジャーナリズムの人間観は殆どそういう図式の片々で終始していると言っても過言ではない。しかしそれはひょっとして、人間の社会的問題や生きた人間観を根本的に歪めて捉えることに繋がらないであろうか。人間は競争もするが協調もする。人間共同の連帯とか誠実さとかということも、一方には厳然と人間の中には流れているであろう。また厳しい思想の戦いといっても、戦いが総てでないばかりか本質的なことであるはずもなく、積極的な思想的営為というものは、むしろ生の感動や身心の平安の感受において遂行されるものに違いないだろうからである。
 別に昔の性悪説に性善説を対置するというようなレベルの話ではないが、近代に人間の問題を捉える時、個の確立とか主体性ということが突出することに対して、そこに共同性というファクターが余りに後退させられていることへの疑問である。
 そういう問題も感じながらこの序文を読んだ。今後本文において様々な問題を検証して行きたいと話しながら、第一回の輪読を終った。


 * (初参加・七尾和晃君)
  東京の七尾和晃君が初めて参加されました。早くからの友人ですが、二十歳前後で単身アメリカに渡り図書館に篭もったりしていました。政治哲学のような分野の独創的な、硬いけれども面白い論文を幾つも書いています。その後、週刊誌記者などを経て時事的な問題にも取り組んだりしている人です。
 まず光文社から『堤義明・闇の帝国』を出した。つい二年前05年のことで、西武・コクド会長・堤義明逮捕とその疑惑解明の引き金ともなった本です。出版のされ方は一種キワモノであるが、決して通俗のトップ屋の産物などとは一緒に出来ない、さすがに肌理細かい文体に僕は感心しました。更に贋美術の横行する画商・美術商の実態を世界を股にかけて取材している『銀座の怪人』(06年・講談社)、戦後の銀座史とも言える『闇市の帝王・王長徳と封印された「戦後」』(07年1月・草思社)と、毎年仕事を重ねているようです。 
 その延長と言えるのかどうか分からないが、今度も自分の仕事の取材のため今ちょうど福岡に見えていて、色々面白い話がありました。七尾君が言うには、近代日本の基幹産業・エネルギーを支えていたはずの石炭産業が、二十世紀後半の七十年代辺りで一気に一斉に衰退させられる。代って石油や原子力発電ということが謳われるようになるわけだが、何か変ではなかろうかと。石炭は今大量に輸入されているのである。
 それで様々な疑問を、日本の鉱山鉱業の歴史と絡めながら自分で調べ始めていると言います。筑豊のあちこちの炭鉱跡も洗っているようです。
 対馬の銀山鉱にも触れてみたいと先般渡島している。日本初の銀の採掘は対馬で興っており、西暦674年、日本書紀の「銀(しろがね)始めて当国に出でたり」という記事が最初です。もう一度行きたいということで今度は村上も一緒に行くかも知れない。僕は対馬高校卒だから対馬には友人もいることで、一度一緒に古い銀山の穴に入ってみようかと言っています。
 (追伸)その後、七尾君とは対馬に一緒に出かけ、石見銀山などより遥かに古い日本最古の銀山を覗いて写真を撮ったりして来ました。既に閉鎖され普通には踏み込み難い坑道に案内をしてくれたのは現対馬市議で高校の親しい僕の同級生でした。今なお銀色に輝く坑道壁の鉱石に思わず息を呑む思いでした。(村上)