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08年春・読書会 案内

2008年2月1日

村上宅にて、春・夏・年末の年三回集まっている読書会。
これもほぼ四十年になろうとする読書会です。始めの十数年は毎月例会をしていて、しかも毎回のように徹夜の議論に及びました。
 主として滝沢克己、夏目漱石を読んで来ましたが、07年からはその総括を兼ねて、滝沢克己『夏目漱石』(滝沢克己著作集第3巻)を読み倒して行く予定です。
 お問い合わせは創言社または村上まで。

 
 08年春・読書会 案内

5月3日(土) 午後2時~
村上一朗方
会費 3,000円

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テキスト 滝沢克己『夏目漱石』(著作集第3巻)
 第1章7節~ から読み倒します。
 (テキストのない人はご連絡頂ければコピーします)
 
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 ベースになる漱石作品は各自再読なさることをお薦めします。
 その上で、「滝沢」の読み方を精査しつつ、各自の読み方を深め膨らませる可能性を探りたいと思います。
 また、「読み倒す」というにつけては、テキスト本文の朗読ということもそれなりの注意をもって練習して行きたいと思います。


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 言葉の音韻ということについて一言。

 一般に言葉というものが、例えばコミュニケーションの記号と看做されていたり、そうでないまでも一冊の本の読解ということの内容は、専ら意味の把握や概念の解析におかれてしまうことが多いでしょう。大学の研究などということは大体それで済んでいるようです。

 意味や理屈の理解が大事でないとは言いませんが、それだけでは、言葉というものが齎してくれる豊穣な内容の、その半分しか学び取れないことになるのではないかと思います。意味が意味として成就する根底にはその言葉の音韻があります。言葉は何よりまず音韻だからです。特に母音を基本に成り立つ日本語の、独特の響きの柔和さや美しさは、あらゆる日本語の意味や概念を規定・方向付けているかも知れない。そう思いたいほど、音韻の大切さということを思います。

 意味でなら着いて来ない子供たちも、音韻でなら着いて来ます。
 方言の音韻が崩れる、つまりNHK主導の標準語運動が全国を一律に覆った結果、地方の文化が単なる観光の見世物くらいに衰退させられ、それが延いては現代の日本全体の文化、日本語を混乱に導いている。そんな風にも思われます。
 日本語の美しい発音や朗読・読み方は決して一つではない。誰かが、これが標準と決めたりするのは単に傲慢だというだけでなく、NHKのように、言葉を守ろうとして破壊の元凶のようになる、生きた言葉への無理解の冒涜と思います。

 いろんな読み方があってよい。それらさまざまの、洗練された朗読にも土俗的な読み方にも、或いは稚拙な読み方でも同じように内容を伝え同じように聞こえ、しかもそれぞれ微妙な独特のニュアンスのその違いに思わぬ発見や情感が喚起される、ということがあると思います。お互いに声を出して朗読し合ってみることによって、そんな言葉の経験も重ねることが出来るのではないかと思っています。
 
 下手でも好い、ただ気持ちよく読めればと思う。ただそのためには内容の自分なりの理解が外せません。「自分なりの理解」というのは、だから別に深い意味などを知ったり解析したりしていなければならないというのではない、ということです。自分の単なる印象だけで好いと思います。それが朗読してみることで、音韻に喚起されるイメージが着いて来ると、自ずとそれらの言葉から、ある「深さ」が感じられるようになるように思います。「読書百遍意自ずから通ず」というのはそういうことではなかったでしょうか。

 幾ら読んでも面白くない、全然朗読に興味が湧かないというような書き物は、大体黙読してもさして意味のない、詰まらないものではないかと思う。朗読に耐えないような文章は読む必要もない駄文でしょう。元来、言葉というのはそういう風に出来ているように思います。