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読書会

村上宅定期読書会:年3回・春・夏・年末に開催
 今期テキスト・滝沢克己『夏目漱石』(滝沢克己著作集第3巻)

(会の持ち方)
 * 読み倒しという方法で参加者の輪読で読み上げ、その後感想や問題を出し合い議論を交すことにしています。
 * 「読み倒す」というにつけては、テキスト本文の朗読ということもそれなりの注意をもって練習して行きたいと思います。


*「言葉の音韻」ということについて一言。
 一般に言葉というものが、例えばコミュニケーションの記号と看做されていたり、そうでないまでも一冊の本の読解ということの実質は、専ら意味の把握や概念の解析におかれてしまうことが多いでしょう。大学の研究などということは大体それで済んでいるようです。
 意味や理屈の理解が大事でないとは言いませんが、しかしそれだけでは、言葉というものが齎してくれる豊穣な内容の、その半分しか学び取れないことになるのではないかと思います。意味が意味として成就する根底にはその言葉の音韻があります。言葉は何よりまず音韻だからです。特に母音を基本に成り立つ日本語の、独特の響きの柔和さや美しさは、あらゆる日本語の意味や概念を規定・方向付けているかも知れない。そう思いたいほど音韻の大切さということを思います。意味でなら着いて来ない子供たちも、音韻でなら着いて来ます。親に連れられてやって来て読書会の場に侍っている小学生や中学生が何時もそうですし、例えば難しい文語調の文言で語られる狂言が泣き騒ぐ幼児を黙らせて子供たちを虜にしてしまうというNHK教育テレビの実験もあります。
 ただ大状況として困ったことには、方言の音韻が崩れたことによって日本語が極度に貧しくなったということです。つまり近代になって学校教育やNHK主導の標準語運動が全国を一律に覆い、方言という方言が放逐されてしまった。その結果は地方の暮らしが腑抜けとなって、各地の独特の文化も単なる観光の見世物くらいに衰退させられました。人々の暮らしやその文化の中核を養っていたのは土地の言葉だからです。それが延いては現代の日本全体の文化を根無し草となし、日本語を歴史上かつてない無茶苦茶の混乱に導いているだろうと思われます。
 日本語の美しい発音や朗読・読み方は決して一つではない。誰かが、これが標準と決めたりするのは単に傲慢だというだけでなく、NHKのように、言葉を守ろうとして破壊の元凶のようになる、生きた言葉への冒涜にならないでしょうか。
 いろんな読み方があってよい。それらさまざまの朗読の仕方の個人的な違い・稚拙さや洗練も、その限りでは同じように内容を伝え、言葉に盛られた事柄が個性的に受肉して聞こえるようにならないでしょうか。そこに出るそれぞれ微妙な独特のニュアンスの違いに思わぬ発見や情感が喚起されることもある。お互いに声を出して朗読し合ってみることによって、そんな言葉の経験も重ねることが出来るのではないかと思っています。